琉球独立運動参考保存資料
月刊《望星》 2017年2月号 ジャーナル 三山 喬
沖縄戦後史の捩れを辿る(下)
−保革と島ぐるみ−
(敬称略)
沖縄を見る目の浅薄さ
気がつけば、「革新」という言葉は死語同然になって久しい。
平成の初めごろまでは、旧社会党や共産党など社会主義、社会民主主義的な政策を掲げる勢力の総称として広く使われたが、衆議院に小選挙区制が導入され、新進党や民主党が自民党の対抗勢力に躍り出て以来、新聞やテレビの政治報道から「革新」の語は急速に消え去った。
だが、沖縄の状況は異なる。
県議会(定数四十八)では昨年末現在、十五議席を持つ最大勢力の自民党が野党の立場にいて、与党サイドでは、社民党や沖縄社会大衆党(社大党)などの会派「社民・社大・結連合」が十二議席、共産党も六議席を占めている。与党には、無所属会派「おきなわ」(九人)もあり、公明(四人)と維新(二人)は中立の立場だ。「55年体制」と呼ばれた保革の二極構造は、沖縄では今日も維持されている。
一昨年の春、沖縄に通い始めてまだ間もないころ、私はつい本土の感覚で、保守層と対時する人々を「左翼的な人たち」と表現してしまった。対話の相手はこれを聞き咎め、私をこう諭した。
「私たちは『革新』という言い方をします」
私も二十年ほど前までは、「保守と右翼」「革新と左翼」という言葉を使い分けていたつもりだが、いつの間にかその感覚を忘れていた。保守の人を不用意に「右翼」呼ばわりすれば、批判的なニユアンスになったものだったし、「左翼」もまた、穏健な革新の外側にいる「革命勢力」のことだった。右翼・左翼はそれぞれに、黒っぽい街宣車や特攻服、ヘルメット・ゲバ棒のイメージと共にある言葉だった。
興味深いのは、そんな私の“失言”をたしなめた人物が、保守系の地方政治家だったことだ。元自治体首長という経歴を持つ男性は、主義主張を異にする「革新」の人たちにも、礼節と敬意を忘れずにいた。
米軍基地に反対する革新勢力と、これを容認する保守勢力の対立。本土にいる人々は、沖縄問題をそんなシンプルで固定的な構図で捉えがちだ。ネットには、前者を「反日」「売国」などと罵倒する書き込みも溢れている。だが、“沖縄の民意”が形作られた歴史を多少でも調べれば、このような見方がいかに浅薄で、一面的なものなのかがわかる。
たとえば、ウチナーンチュの独自性にこだわるアイデンティティーの問題ひとつ取り上げても、一九七二年の本土復帰を境に、保守層の主張は、革新の問題意識へと入れ替わってゆく。前回の記事では、戦後、さまざまに現れた独立論の流れに着目し、その変化を辿った。“ヤマトとの一体化”を象徴する日の丸の重みが、本土復帰後に、保革で入れ替わったのも、同じような現象である。
今回はもう少し幅広く、沖縄政治史の全体像
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を俯瞰したい。
「イデオロギーよりアイデンティティー」。二〇一四年、翁長雄志はそう訴え、本土復帰以来、初めて保革の枠組みを超えた知事として当選した。その意味をより深く考えるためだ。
加速したイデオロギー対立
本土復帰のあと七〇年代には、屋良朝苗、平良幸市と革新知事が連続当選し、七八年以後三期十二年、西銘順治の保守県政が続いた。九〇年からは大田昌秀の革新県政が八年あり、その後、稲嶺恵一、仲井眞弘多と保守知事が二期ずつ当選した。翁長県政に至るまで、沖縄ではこのように、保革の闘いが繰り返されてきた。
だが米軍統治時代に遡ると、その前後半で様相は変わってくる。復帰後のような保革対立は六〇年ごろを境に始まったもので、前半の十数年間、沖縄の政治勢力はもっと複雑に入り組んでいた。
獨協大法学部地域総合研究所の特任助手・平良好利はこう説明する。
「五〇年代の終盤、沖縄社会党が誕生して日本社会党と友党関係を結び、保守の琉球民主党も本土の自民党と接点を持つ沖縄自民党になりました。ローカルの中道政党だった社大党は革新寄りになり、相次ぐ労働組合の設立、経営者団体の結成といった変化もありました。このような動きが重なり合う中で、沖縄のイデオロギー対立は激しくなっていきました」
西銘知事のもとで副知事となる政治学者・比嘉幹郎は六三年までの政治状況を著書『沖縄 政治と政党』にまとめている。対立の激化が認識される直前の沖縄の四政党、自民、社大、社会、そしてのちに共産党となる沖縄人民党について、このように記している。
《いずれも活動的な少数エリートによって創設された政党であり、(アメリカ当局が任命する琉球)政府首脳の交替ごとに再編される傾向がある。(略)人物本位的傾向やてんめんたる人間関係が根強く残り、(人民党を除けば)イデオロギーとか主義に基づく党活動を圧倒している》
こうした特徴から、《沖縄にあるのは、「公党」であるよりはむしろ「私党」》という仮説さえ立てられる、 と比嘉は主張した。
《沖縄社会大衆党は平良辰雄知事(沖縄群島知事、一九五〇年〜五二年)によって設立され、琉球民主党は比嘉秀平行政主席(五一年〜五六年)の支持者たちによって組織され、沖縄社会党は兼次佐一那覇市長(五八年〜六二年)によって創設された。また琉球民主党の沖縄自由民主党への吸収も、当間(重剛)主席(五六年〜五九年)と大田(政作)副主席によって促進されたのである。これらの人々は、直接住民の支持を得て政権を手にするためというより、どちらかといえば既得の権力を守り、それを恒久化するために政党を結成した》
身も蓋もない言い方をすれば、重要ポストに就いた有力者の周辺にさまざまな人間関係で集まった集団が、五〇年代までの政党だった、というのである。
米軍に任命された行政主席が琉球政府の責任者となり、民選の議員が立法院を構成する。敗戦後の現地統治機構がそんな形に落ち着くのは五二年。それまでは米軍による手探りの制度変更が続いた。
四五年八月、焼け野原の沖縄で最初に設けられたのは、米軍がリストアップした十五人から成る諮問機関 「沖縄諮詢会」だった。凄惨な地上戦を生き延びた沖縄人の戦後は、難民キャンプのような十ニカ所の強制収容所で始まった。そのひとつ石川収容所に十五人は集められ、志喜屋孝信という元中学校長が委員長に任ぜられた。
収容所ごとの責任者などを選ぶ投票はあったが、それ以外に選挙権を行使する機会は長らく与えられなかった。人々が収容所から解放され、居住地に戻り始めると、四六年春、新設「沖縄中央政府」(ほどなく「沖縄民政府」に改称)の知事に横滑りした志喜屋は、とりあえず戦中と同じような顔ぶれを市町村長に任命した。
前回の記事で触れた、沖縄人による最初の政治集会「沖縄建設懇談会」が開催され、沖縄民主同盟や人民党などが結成されたのは、四七年のことだ。人々の不満は当初、志喜屋たちによる民政府の運営に向けられた。その背後にいる米軍を批判することは、まだ困難な時代だった。
沖縄タイムスの長期連載をまとめた『沖縄戦後史 政治の舞台裏』(当山正喜)という八七年刊行の大著がある。
その書き出しは四七年二月、本土から引き揚げて間もない青年・桑江朝幸がコザ市(現・沖縄市)の自宅から五十キロ以上離れた大宜味村に向かって、汗だくで自転車を漕ぎ進む場面から始まる。
四つの流れ
桑江はのちに市町村土地特別委員会連合会(土地連)の会長として、軍用地料をめぐる「島ぐるみ闘争」を牽引し、本土復帰後は沖縄市長にも選ばれるが、当時はまだ二十九歳の若者。自転車で遠路はるばる訪ねたのは、山城善光という戦前の農民運動リーダーで、やはり本土からの引揚者だった。
「今の沖縄には自由がない。道義も退廃しており、これでは大変なことになるぞ」
本土でGHQの民主化政策を目の当たりにしたふたりは、沖縄での落差に深刻な危機感を抱いていた。
この本によれば、桑江の熱心な説得から有志の輪が広がり、沖縄建設懇談会の開催や民主同盟の結党という流れが生まれたという。
この動きに呼応した人々は、まさに種々雑多で、懇談会の参加者には、戦時中の大政翼賛会支部長だった元那覇市長・当間重剛もいれば、共産主義からの転向者で、沖縄諮詢会委員に指名されながら、民政府の運営に反発して飛び出し仲宗根源和のような人物もいた。独立論者の大宜見朝徳のほか、のちに人民党リーダーとなる瀬長亀次郎らもいたことは、前回記事で述べた通りだ。
収容所内の投票を別にすれば、沖縄で最初の選挙が認められたのは五〇年。ァメリカはその前年、沖縄を恒久的な軍事拠点とする方針を定め、新しい住民統治策として、沖縄と奄美、宮古、八重山の各エリアを分割してそれぞれに群島政府を置き、群島知事と群島議会議員を選挙で決めることにした。
沖縄本島を含む沖縄群島知事選では、民政府内の反主流派だった工務交通部長・松岡政保を民主同盟などが推す形になったが、民政府主流派が擁立した農林省総裁・平良辰雄がこれを打ち破り、平良は自らの政党・社大党を新たに立ち上げた。桑江らの民主同盟はこの敗北を受け解散し、共和党という新党に変わった。
五一年九月にはサンフランシスコ講和条約が結ばれ、沖縄の米軍統治継続が確定する。
すると米軍は方針をまた改め、群島政府をわずか二年で廃止して、今度は新設する琉球政府に権限を束ねることにした。初代の行政主席には、志喜屋のもとで民政府官房長官だった元英語教師・比嘉秀平を任命し、公選首席制度の導入は毎期限延期とした。
比嘉自身は平良に同調し、社大党に加わった人物だが、独断でこの人事を受諾したことで党内の批判を受け、一部の社大党離脱者と共和党、旧民政府幹部らを糾合して自らの与党・琉球民主党を新設した。平良の社大党が本土復帰を掲げたのに対し、比嘉の琉球民主党は親米の保守政党という点で、色合いはやや違っていた。
のちの自民党につながる“沖縄保守の源流”は、このようして誕生した。民主同盟や共和党にいた桑江も、民主党結成に加わった。ただし、この時点の社大、民主両党には、沖縄の帰属をめぐる立場のほか、さほど際立った対立点はなく、比嘉幹郎が指摘するように、双方とも有力者の「私党」のような側面がまだ強かったようだ。
と、駆け足で主要政党の発足を見てきたが、敗戦後の沖縄諸政党の離合集散は、実に目まぐるしい。ざっくりと、各党は混沌とした勃興期を経て、四つの大きな流れになり、現在へと至っている。そう捉えると少しは理解しやすくなるだろう。今で言う自民、社大、社民、共産への流れである。
四党の中で唯一党名を変更せず、今もなお、沖縄の地域政党であり続けているのが社大党である。そのスタンスは曖昧で、やや革新寄りの中道、といったところだ。前述したように群島知事・平良辰雄を中心に生まれた政党で、五八年にそこから分かれ出たグループが社会党(現在の社民党)となる。のちに共産党となる人民党は、激しい弾圧を受けながら、米軍統治への抵抗を続けた。
保守陣営は、内部抗争による分裂や再編を繰り返した。比嘉秀平の立ち上げた琉球民主党は、沖縄自民党→自民党・自由党の分裂と再合流→沖縄民主党→沖縄自民党→自民党沖縄県連と二十年間で党名を何度も変えている。比嘉幹郎によれば、「沖縄における保守」という意味合いが突き詰めて考えられた形跡はなく、敢えて言えば米軍との融和的なスタンスと自由経済を 重視する人々、ということだったらしい。前回触れたように、日本本土との関係で言えば、当時は革新勢力より距離を置こうとする人々が目立っていた。
蘇った「島ぐるみ」
こうした流れを踏まえ、時計の針を現代に戻すと、オスプレイの導入や普天間基地の辺野古移設に反対して超党派の体制「オール沖縄」が誕生し、これを母体に翁長県政が生まれるわけなのだが、そのプロセスで蘇ったのが、「島ぐるみ」という言葉だ。
二〇一四年から一五年にかけ、草の根の反オスプレイ・反辺野古の運動体として県レベル、市町村レベルで次々と住民組織「島ぐるみ会議」が生まれた。党派性を乗り越えるイメージの言葉だが、もともとは一九五〇年代後半の「島ぐるみ闘争」に由来している。
現職の社民党県議・新里米吉によれば、民主党政権が誕生した二〇〇九年の秋、普天間の県外移設を念押しする県民大会で、自民党系の那覇市長だった翁長を共同代表に引き入れた際、新里の説得を受け翁長は「我々の先輩はお互い、島ぐるみ闘争で米軍という強大な相手に打ち勝ったじゃないか」と語ったという。
島ぐるみ闘争とは、軍用地料の支払い条件などをめぐり一九五六年、保革が共闘して米軍に要求を突きつけた闘いである。当時、真和志市(現・那覇市)の保守市長だった翁長の父・助静もまた、本土への代表団メンバーとして国会で沖縄の窮状を訴えるなど、戦列に名を連ねていた。
沖縄の保守政党がまだ琉球民主党だった時代だ。保革対立が本格化する以前の段階で、「島ぐるみ」体制を組みやすい条件下にあったのだが、沖縄の各種勢力が結束してアメリカに抗ったという点で、沖縄の政治史上、画期的な取り組みだったことは間違いない。
沖縄の米軍基地の多くは、旧日本軍の基地跡や住民が強制収容所にいる間に接収された民有地が多かったが、本土の海兵隊を移すためなどに五〇年代にも軍用地は拡張され、武装した兵士を動員した強制的な接収方法は「銃剣とブルドーザー」と呼ばれた。
島ぐるみ闘争は、米軍が極めて低額な軍用地料を一括払いして土地収用を進めようとしたために、沸き起こった。住民側は一括払い反対や適正補償、損害賠償の要求、新規接収反対の「四原則」を掲げた。
運動は当初、全県の六十四市町村のうち五十六カ所で住民大会が開かれるなど、文字通り「島ぐるみ」の激しさを見せたが、やがて米軍の圧力で比嘉主席ら指導者がふらつき始め、オフ・リミッツ(米軍の外出禁止令)による経済的圧迫、琉球大学への援助打ち切りなどさまざまな手段で戦列は切り崩されていった。
それでも粘り強い闘争の結果、二年後には一括払い方式の廃止と、軍用地料引き上げについては、米軍側の譲歩を引き出すことに成功した。
興味深いのは、島を挙げての闘争が繰り広げられていた五六年十一月、米軍による強制立ち退きを恐れ、新規の土地契約に応じる地区が出現し、これがまさに海兵隊キャンプ・シュワブ基地の予定地となった久志村(現・名護市)の辺野古地区だったことだ。
のちに地元住民らが編纂した『辺野古誌』には、こう記されている。
《(辺野古区の対応によって)反対闘争の一角を崩され、今後各地に於いても(米軍との)直接交渉に方向転換するのではないかと(全沖縄島民が)不妥を募らせると共に、辺野古における歴史的転換期も島民の非難を浴びせられた事はいうまでもない》
普天間基地の移転先としてさまざまな切り崩し工作を受け、「条件付き容認論」が多数派になった現状とも重なり合う光景が、六十年前にも同じ地区に存在したことが、何とも因縁めいて感じられる。
屋良朝苗と西銘順治
さて、このような島ぐるみ闘争を経て、六〇年ごろを境に保革対立の構図が顕在化してくるのだが、沖縄戦後史における保革最大の争点が、革新勢力が推し進める本土復帰運動であった。
米軍にとってはもちろん、軍事拠点としての沖縄を失いたくはない。親米派の保守勢力もそのことは理解していたが、一方で社大、社会、人民の各党が掲げる本土復帰には、大多数の沖縄住民が共威を抱いていた。 こうした状況に、保守勢力はどう対峙したのか。
ここにひとつの文書がある。タイトルは『祖国への道』。沖縄自民党が六〇年に発行したものだ。
この文書は《祖国復帰は、われわれの民族的本能に由来する自然な欲求である》と、復帰そのものの方向性は認めるが、国際情勢を理由に《今すぐに祖国復帰が実現できるということは全く考えられない》として、革新勢力の大衆運動を「無責任」と切って捨てている。
そして自らの立場を《施政権は日本に返してくれ。そして沖縄の米軍基地は、本土の基地同様、安保条約で双方協力体制のもとに維持するのが、日米琉三者の為にも、又、自由を守る為にもよい方法である》と説明する。基地を維持したままの復帰論である。
具体的方策としては、主席公選など自治制度の改善や、本土との往来・交易の簡素化、本土政府による援助の拡充といった課題を一つひとつ解決し、「祖国との一体化」を進める。そんな「積み重ね方式」以外、復帰への近道はない、という主張だ。
保守サイドからそんな異論も出る中で、この同じ六〇年、沖縄教職員会と沖縄県青年団協議会(沖青協)、官公労を中心に沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)という組織が誕生した。
復帰協としても「島ぐるみ闘争」の体験から、超党派の結集を目指す重要性は十分に理解していた。大衆運動を嫌う自民党はそれでも離脱してしまったが、復帰協はしばらく「島ぐるみ」にこだわり、「米軍基地反対」を掲げたのは、ベトナム戦争などの影響で運動が先鋭化した六七年以降のことだった。
運動の中心にいた沖縄教職員会は、しばしば誤解されるような“左派集団”などではなく、そもそも労組ですらなかった。校長など管理職も網羅する職能団体で、会長の屋良朝苗(のちの公選行政主席、沖縄県知事)自身、運動の初期には基地の存在に「反対する立場にはない」と言い切っていた。組織を挙げ、沖縄県護国神社の再建を目指すような運動にも取り組んだ。
六五年、佐藤栄作首相の沖縄訪問をきっかけに、“夢物語”と思われてきた本土復帰が突如として現実味を帯びてくる。と同時に、基地を残したままの施政権返還でいいのか、それとも基地撤去を求めるのか、関係するすべての団体や個人が、立場の明確化を迫られるようになる。復帰運動と反基地運動はこのようにして結びついてゆく。
こうした中、六八年、米軍の任命制だった行政主席の選挙がついに実現する。革新三党は長年にわたって復帰運動の先頭に立ってきた沖縄教職員会会長の屋良朝苗を立て、沖縄自民党は那覇市長の西銘順治を擁立した。前回記事で触れたように、この選挙には独立論者の野底武彦も出馬したが、闘いは実質、屋良・西銘の一騎打ちだった。
六一年に那覇市長選に初当選して以来、保守陣営の 中心的存在になっていた西銘は、ある意味、戦後の沖縄保守を象徴する人物のように私には思える。
東京帝大を出て外務省をわずか半年で退職、沖縄の再建のために帰郷した。政界でのキャリアは意外にも、社大党の結党メンバーとして始まっていた。しかも、若き日の西銘は、党の綱領に「社会主義」の文言を盛り込もうと主張するような理想家肌だった。だが、やがて持ち前の行動力によって、政界人脈を多方面に拡大。社大、民主両党の合同を模索する時期を経て、五〇年代後半には立場を保守に変え、沖縄自民党の結成に加わった。
選挙戦では屋良が本土への即時復帰を訴え、西銘は「イモ・ハダシ論」でこれに対抗した。経済的自立なき復帰は、県民に窮乏をもたらす、という時期尚早論である。
一方で屋良は、陣営が用意した「安保廃棄・基地撤去」という主張を「安保反対・基地反対」に弱めるなど、急進的な政策を嫌った。
ちなみに、ふたりの対決は、沖縄二中時代の教師と生徒という師弟対決でもあった。激戦の軍配は恩師の側に上がった。
獨協大の平良の論考によれば、日本政府沖縄事務所は選挙直後、この結果を「当然」とする報告文書をまとめている。その分析では、異民族の支配下に置かれた沖縄県民は言うなれば、そのすべてが「野党的存在」であり、アメリカへの抵抗の象徴たる屋良はなるべくして野党候補になった。むしろ本土の自民党が一部復帰反対論者も含む沖縄自民党を支援したことにこそ「矛盾」があり、県民から「強い反発」を受ける理由になったという。
西銘にも苦悩があっただろう。選挙後に「イモ・ハダシ論」について問われると「もう君、そんなことを聞くな」と押し黙ったという。
平良のこの論考には、本稿のタイトルと同じ「捩じれ」という言葉が使われている。日本への復帰を熱望し、日の丸を打ち振った人々を、本土の自民党は受け入れず、むしろ復帰に消極的だった沖縄の保守勢力を支援した。そのことを意味する表現である。
私自身、一昨年から『週刊朝日』誌上で沖縄のルポ連載を取材・執筆し、似たことを感じていた。米軍統治時代、「革新勢力」と呼ばれていた屋良を筆頭とする本土復帰派だが、実は「日本」に固執した彼らこそ、その内面においては戦前の価値観の継承者ではなかったか、と。
一昨年の秋、そのことにルポ連載で言及したところ、九十歳を超える芥川賞作家・大城立裕から感想のメールを受け取った。大城は、私の感じ取った「振じれ」に同意してくれたうえで、保革の象徴的存在、西銘と屋良の対比を例示した。この老作家の目に、ふたりのメンタリティーは立場と反対に映っていた。
屋良はただまっすぐ「日本人になる目標」に突き進んだ人。それ以外の思想はとくにない。一方の西銘は 「ヤマトゥンチュになろうとしてなりきれない心」を抱えつつ、本土の自民党に従う葛藤を生きた人。それが大城から見たそれぞれの人格であった。
文末にはこんな逸話も書かれていた。
《(屋良は主席に就任して)祝辞、弔辞の挨拶を、それまで白紙に横書きであったのを、巻紙に毛筆にしたのでした。アメリカ人はこれをトイレットペーパーと笑いました。(屋良と西銘)どちらが保守でどちらが革新だと思いますか》
新たな「政治空間」
さて、沖縄の保守、あるいは保革、というテーマに光を当て、戦後史の流れを辿ってみた本稿だが、実はこのような視点でまとめられた研究はごく少ない。沖縄戦後史にまつわる書物は山のようにあるが、その多くは大衆運動史として革新のサイドから書かれたものだったり、限定的範囲の回顧録だったりして、保革をバランスよく俯瞰する研究は、今のところまだ、獨協大の平良好利や大阪教育大准教授の櫻澤誠といった少数の若手にしか見られない。
とくに昨今の沖縄の現状を、戦後史の流れの中で捉えたい、と考えた私の関心は、櫻澤の『沖縄の復帰運動と保革対立』『沖縄現代史』の二著作なくしては、満たされることはなかった。
本稿を執筆中の十二月中旬、櫻澤のさらなる著書『沖縄の保守勢力と「島ぐるみ」の系譜』が刊行され、早速取り寄せた。
この本で櫻澤は、歴史的に土地闘争や基地問題への対応などを見た場合、そこには現実主義的な「『保守』的立場」と人権などを重視する「『革新』的立場」のふたつがある、と説き、両者は対立関係でなく、前者の延長線上に後者が展開する「重層的な関係」にあるのだと分析する。
つまり、革新が保守の立場に足並みをそろえれば「島ぐるみ」の一致点を見出すことが可能になり、それは現在の「安保を容認したうえでの辺野古反対」という島ぐるみ体制にも当てはまる、というのである。
一方、獨協大の平良は、「政治空間」という概念で沖縄戦後史を捉えようとしている。それによれば「沖縄保守」という固定的な概念は存在せず、それは常に時代環境ととともに変化を続けているのだという。このことに関連して言えば、私は本土復帰運動の中で「基地撤去」が前面に押し出された期間が、復帰直前のわずか五年間にすぎなかったことに改めて意外さを覚えている。
平良の説明によれば、当初「島ぐるみ」を目指した復帰協の運動も六〇年代半ばには革新色が強まったが、革新陣営内部にも基地労働者の組織「全沖縄軍労働組合」があり、「反基地」にはなかなか踏み出せなかったという。一般県民の感覚でも当時はまだ、基地経済の存在は無視できなかったに違いない。
だとすれば、復帰から四十五年、基地経済への依存度が五パーセントにまで下がった状況があるからこそ、今日の沖縄の民意が存在する、という見方もできるはずだ。平良の言を借りれば、沖縄は今、歴史上存在しなかった「政治空間」に差し掛かっている。
(了)
ノンフィクション作家 三山 喬
●みやま・たかし 1961年神奈川県生まれ。著書に『ホームレス歌人のいた冬』『さまよえる町』(ともに小社刊)、『夢を喰らう キネマの怪人・古海卓二』(筑摩書房)など。
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