琉球民族の自決権と一国二制度を実現する会主催シンポジウム
統一テーマ「復帰とは何だったか」
2013年5月12日(日)
レジメ
「なぜ、琉球独立運動をしてきたか」
屋良 朝助
(かりゆしクラブ・琉球独立党)
「なぜ、琉球独立運動をしてきたか」
屋良 朝助 (かりゆしクラブ・琉球独立党)
どうも皆さん今日は、屋良朝助です。暑い中、当会最後のシンポジウムにきて頂きましてありがとうございます。当会のシンポジウムを中心とした活動は沖縄のいろいろな問題を考えるために一定の役割を果たしたのではないかと思います。
日本復帰とは何だったか
独立のお話の前に少し復帰の話を致します。結論から言いますと、日本復帰とは皇民化教育の亡霊だったと思います。
1−キャラウェイ高等弁務官の発言「自治は神話なり、意訳すると琉球が独立するなら自治も獲得できますよ」に見られるように終戦後米軍は沖縄を独立させる気があったが沖縄の政治家、先生などの指導者層がほとんど、皇民化教育の影響を受けた人達だった。皇民化教育は廃止されたが沖縄人にまだ取り憑いていた。つまり民族的に日本人と思っていた。
戦後、日本が侵略した地域が独立していく中で、本来琉球も民族教育を行い、将来琉球が独立すべきところを、師範学校を出た人などが、亡霊に取り憑かれた頭で、またもや日本人教育を行ってしまった。
2−戦後沖縄では指導者が沖縄を独立させる動きもあったが、朝鮮戦争が起き沖縄の米軍基地が強化され、土地の強制収用などもあった。米軍に反発した人たちは米軍が強大でとても沖縄の独立運動などでは勝ち目がないと思った。沖縄は憲法9条がある日本に復帰した方がてっとりばやく人権が守れると思った。
3−沖縄内の公務員労働組合、タバコ産業労働組合、電電公社労働組合など、日本復帰すると本土並みに、自分の給与が上がるということで、復帰運動をした。(その替わり琉球の領土と尖閣諸島、海洋資源などの莫大な民族利益、利権を琉球政府から日本政府に無条件、つまり無料で引き渡すことになる。)
私は以上の3点が日本復帰の状況だったと見ます。現在の沖縄人の国籍が日本なのは事実ですが、民族も日本人と思っているのがまだかなり多いと思います。
さて、沖縄県民も参加している日本国は民主主義、多数決の原理に基づいて沖縄に軍事基地を設置しているわけですから。沖縄県民が日本人という立場では合法的に基地を撤去できません。
基地をどうするかというのは国家の権限です。従って民族自決権に基づいて基地を撤去したければ琉球の独立しかありません。
沖縄県民が基地を取り囲み基地撤去といくら叫んでも、日米両政府は痛くも痒くもありません。
琉球独立の旗を高く掲げ、米軍基地、自衛隊基地を多くの琉球人が取り囲む時、日米政府の首脳は頭を抱え夜も眠れなくなるでしょう。沖縄県民に憑依した皇民化教育の亡霊も徐々に消え去るでしょう。
琉球独立運動のきっかけ(1969年)
さて、私の本題に入りますが、私がなぜ琉球独立運動をしてきたかということですが、私が高校生の時、山里永吉氏の著作に影響を受け、「沖縄人の祖国は琉球国である」というモ衝撃の事実モを知ってしまったからです。繰り返しますがモ衝撃の事実モです、なぜ衝撃かといえば、それまで私は私も含めて沖縄県民は普通の日本人だと思っていたからです。しかし、「普通ではなかった」。
山里永吉氏が強調していたのは、琉球王国時代、尚真王が武器を撤廃し、非武装国家として平和的に世界と交易し、琉球文化が花開いたというものでした。その影響を受け、私も琉球が非武装国家として独立すべきだと、クラスや学校内で主張したり、日誌などに書いたりしました。これが私のささやかな琉球独立運動、活動の始まりです。
高校を卒業してしばらく看板屋で働いていましたが、地元の百貨店で募集があったので応募し幸運にも受かりました。
琉球独立党の党員となる(1971年)
しばらくその百貨店で働いている頃、世の中が騒然としている復帰1年前、沖縄返還協定も調印されようとしている頃、1971年5月12日の沖縄タイムス、18日の琉球新報に、突然、意見広告と称し「琉球独立党」結成のよびかけが掲載されました。発起人は、野底武彦、崎間敏勝、などでした。
私はこの意見広告に賛同し結成の呼びかけに応じ、那覇商業高校向かいの沖縄で最初の公認会計士である野底武彦氏の自宅兼事務所を訪れました。そこには大きな表札に「大琉球監査会社」と書かれていました。
外のポールと室内には大きめの横130センチぐらいの未来の琉球の国旗が掲げられていました。あとでその国旗に名前を付けようということになり、党員が集まって会議をしました。私の提案が受け入れられ「三星天洋旗」に決まりました。
野底の風貌と性格はカストロ首相に似ていました。ゲバラに相当する人はいませんでした。
琉球独立党の活動(1971〜1978年頃)
通常はポスター張りをよくやっていました。
野底が考えた琉球独立のスローガン「独立なくして平和なし」「独立なくして自由なし」「独立なくして権利なし」「独立なくして繁栄なし」などを私がシルクスクリーンの版を作り、紙に手刷りしていました。全部で1万枚ぐらい作って貼ったのではないかと思います。
ポスターは野底の車や党員の車を使い、野底と党員が、メリケン粉糊で、電柱や塀などに貼りました。琉球政府の駐車場にある、お偉方の黒い車にも、隙を見て、「よし、今だ、行けっ!」と、ベタベタ貼った。可哀想に、又頭のおかしなあいつらか、という感じで文句はきませんでした。
後述の機関誌三星天洋にはアイヌ民族への連帯メッセージもあり、宮城賢秀氏などが交流に行きましたが、交流は発展しませんでした。
*他の活動、
第9回参議院議員通常選挙 崎間敏勝(さきまとしかつ)出馬 1971.6.27
成人式代表演説乗っ取り(屋良朝助) 1972.1.15(別途新聞記事資料と略歴参照)
映画シンポジウム「さらば、幻視の祖国よ!」を催す。1972.1.22
交通方法変更「730=ナナサンマル」反対活動、集会
(琉球独立党主導による730反対実行委員会)1978.7.30 これを最後にしばらく休眠状態に入る。
本の発行
*どうすれば通貨不安は解消できるか 1971.10.1
*機関誌『三星天洋』の発行 1972.8.
*新沖縄独立論 琉球共和国 夢から現実へ 2006.6.27
以上本の内容、詳しくは、かりゆしクラブのホームページにあります(ぜひ資料として読んで頂きたい)
野底武彦氏が取材を受ける(最近)
(沖縄の政治情勢により琉球独立論に関心が出始める)
*2004年6月に出版された=「沖縄独立」の系譜=の著者、比嘉康文氏の取材を、2003年8月に受ける。
*2008年9月に出版され、現在ベストセラーになっている「沖縄、 だれにも書かれたくなかった戦後史」の著者、佐野眞一氏の取材を2005年11月に受ける。この時紛失していた琉球の国旗三星天洋旗を私が新調し野底に贈呈しました。
*集英社発行月刊PLAYBOY2006年11月号(9月25日発売)沖縄コンフィデンシャルでも佐野眞一氏の取材記事。
*2006年7月には、ルポライター國貞陽一氏の取材を受け、月刊実話GONナックルズ2006年10月号(8月30日発売)に、竹中労—野底土南、琉球独立伝として記事が掲載される。
琉球独立党の活動再開。
2005年8月に私が野底と会ってから、すぐにホームページの制作を開始し、インターネット中心に情報を集め、活動を開始した。
2006年、鎮魂の6月23日に行動を開始、与那国から、琉球独立を訴えるビラを数人で撒きながら、コザまで北上しました。
東京で6月27日と7月31日に集会を開き、野底の活動を紹介した。「語やびら琉球独立論、竹中労と琉球独立党の伝説」第一、第二として盛況でした。
2006年11月、沖縄県知事選挙、琉球独立党から35年ぶりに出馬で、TVニュースになりました。
野底武彦氏の琉球独立経済理論
野底武彦氏は精神論だけではなく、沖縄で最初の公認会計士だけに琉球独立論も琉球の経済収支のバランスシートで見ていました、専門的な会計用語を使い、数字を羅列しているので取っ付きにくいところがあったと思う、しかし、丁寧に読んでいくと、全く学問的で理にかなっています。1972年当時にすでに琉球独立論は完成されていた。(詳しくは機関誌三星天洋と、どうすれば通貨不安は解消できるか、を読んで下さい) 2誌ともかりゆしクラブのホームページにあります。
野底氏は、日本円を使用すると、沖縄県民のお金であっても、預金として銀行に預けたり、何らかの保険金支払いなどでそれが中央(東京)に回収されると、沖縄の庶民の景気が悪くなると考えていました。
沖縄独自の通貨を発行し沖縄内で資金が回ると経済や投資、生活などが安定、発展すると考えていました。
通貨は紙切れなので、本来価値がない、従って金(キン)の裏付けが必要だと考えていました。
野底武彦氏の琉球独立経済理論をわかりやすく応用したもの
現状からの琉球独立論(屋良朝助案の一つ)
現在沖縄県が日本に納める税金より日本からの地方交付税やいろいろな援助金が多い訳ですが、差し引き沖縄県が赤字の分を基地使用料(注※個人軍用地代とは別)として日本政府から支払ってもらいます。
つまり、援助金、交付金の名目を基地使用料に変えて、独立したら払わなくても良い所得税(日本に支払う税)の分を差し引くだけでバランスシートが成り立ちます。沖縄も日本政府も予算的に損も得もありません。沖縄県の名称を琉球共和国に変え、援助金の名目を基地使用料に変えるだけです。日本の先端的基地を沖縄が引き受ける代わりに日本に基地使用料を支払ってもらうわけです。
米軍基地や自衛隊基地は現状からスタートします。独立後、観光や石油の開発、その他の経済政策により徐々に足腰を強くし収入を上げていきます。又、琉球共和国の平和外交により軍事基地も全体として徐々に減らしていきます。
あと、通貨やパスポート、琉球共和国か日本国か国籍の選択など細かな実務は公務員に任せましょう、特に問題はありません。生活も今と変わりません。
要するに現状からスタートすれば簡単だと言う事です。この案の良い所は沖縄が自立すればするほどその分の基地使用料は減らせる、つまり日本からの資金の流れ(援助)を減らせる事にあります。従って日本政府としても自立を助ける方向に向かった方が良いと言う事です。
注※新琉球政府の基地使用料は個人の軍用地代とはもちろん別です。民間の個人地代は何の危険性もない普通の地代であり、新琉球政府の基地使用料は琉球国として特殊で危険な物、場合によっては核ミサイルが落ちる可能性があるリスクを引き受ける別次元のものだという事です。
基地使用料が高いというなら基地はすべて即、本土に持っていってもらいましょう。跡地を有効に使えば今よりも経済的に有利というのは今や実績でほぼ証明されています。
次に国籍の選択方法です
基本的に沖縄に住んでいる沖縄人 →琉球共和国
沖縄に住んでいるヤマトンチュー →琉球共和国か日本国か選択
ヤマトに住んでいる沖縄人 →琉球共和国か日本国か選択
ヤマトに住んでいるヤマトンチュー →日本国
夫婦が沖縄人とヤマトンチュー →琉球共和国か日本国か選択
次に通貨交換の順序を説明します。
仮に琉球の通貨呼称をJINとします。預金とか証券を考えると複雑になるので説明のために現金中心にします。
まず琉球国内で流通している日本円の量を確認します。交換レートを1対1として同じ量の琉球JIN(兌換券)を印刷して琉球中央銀行に準備しておきます。
次に琉球国内で円とJINを交換して琉球政府の保証のもとに琉球国内でJINを流通させます。これで琉球中央銀行に外貨として円がストックされます。この円で外国市場から純金を買い入れて琉球中央銀行の大金庫に厳重に保管します。JIN(兌換券)の流通量=同額の純金。これでJINは純金に裏付けられ外国に対しても信用されます。
資料
*琉球独立党結成の呼びかけ(新聞記事)
*屋良朝助による1972年那覇市の成人式乗っ取り(新聞記事)
*野底武彦氏を中心に作られた、琉球独立党綱領と独立十訓
*特別プレゼント琉球の紙幣
2013年5月12日(日)
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