脈打つ沖縄「独立論」 小学校のすぐ隣…オスプレイの列 無視される抗議、日本に見切りを
「ヤマトンチューは割りばし使い」。沖縄のことわざで、本土の人は使い捨てにするのが常だから長くは付き合えないとの意味だという。日本という国への歴史的な不信感は米軍垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの配備で、さらに膨れあがった。そして今、沖縄のことは沖縄自らが決めなければとの「独立・自立論」が広がりつつある。【戸田栄】
<沖縄人を人間扱いしていない><日本をあてにすべきではない>−−大田昌秀・元沖縄県知事(87)を、運営する那覇市の沖縄国際平和研究所に訪ねると、最近の地元紙にそんな内容の投書が増えたと指摘した。主婦らの投稿も多く、県民の意識が変わってきたと感じている。
「辺野古では基地建設に反対して、10年以上も地元のお年寄りが座り込みをしている。そこへオスプレイ配備、米兵の女性暴行事件でしょう。投書は怒りに満ちていて怖いくらいです。私は県民が米兵と直接に事を構えることを懸念している。そういう沖縄の現状を、本土の人は理解しようとしていますか?」
研究所1階を沖縄戦の資料館にし、平和が重要と訴え続ける大田元知事だけに表情は硬い。具体的に、県民の意識はどう変わっているのか。「『沖縄に自己決定権を取り戻さなければ』という考えが大きくなっているのです。独立や自立について、まだ県民が広く語り合う状況ではありませんが、そのうねりが押し寄せているのを感じます」
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沖縄県宜野湾市の嘉数高台(かかずたかだい)公園。オスプレイが配備された米軍普天間飛行場が一望できるこの場所へ、同市内で「沖縄独立研究所」を主宰する、比嘉康文(こうぶん)さん(70)が案内してくれた。東京ドーム約103個分という飛行場が、市街地の真ん中をどんと占拠している。
「日本人になろう、なろうとして崖を登るが、途中でいつも谷底へ突き落とされる。それが沖縄の歴史です」と、比嘉さんが飛行場をにらみつけながら語る。比嘉さんは米占領下の沖縄で育ち、琉球政府職員から地元紙記者に転じた。沖縄戦の他、ベトナム帰還兵が在沖米軍基地で日本人男性を射殺した、1972年のベンジャミン事件の報道などに取り組んだ。沖縄の戦後を見据えてきた末の結論だ。
嘉数高台は、米軍が「いまいましい丘」と呼んだほどの沖縄戦の激戦地だったという。比嘉さんが沈痛な面持ちで語る。
「多くの沖縄人が日本兵とともに、ここで戦って亡くなりました。その場所から見える光景が基地。沖縄の現在を象徴してはいませんか」
04年に米軍ヘリが校舎に激突した沖縄国際大を訪ねた後、飛行場と隣り合わせにある小学校へ行った。小学生が無邪気に遊ぶ校庭の向こうに、墜落の危険性が高いとされるオスプレイが並んでいる。教員が憤る。
「誰だって、子どもをこういう場所で学ばせるわけにはいかないと思うはずです。いつまでこんな状況が続くのか。悲しいことに、子どもたちは慣らされ、少々の物音には動じなくなっていますが……」。校内には「青い空を返せ」との大見出しを打った地元紙を掲示している。子どもたちはこの学校で、何を思って過ごしているのだろう。
車で30分ほど行った所にある、うるま市の宮森小学校も訪ねた。59年に米戦闘機が墜落して炎上、周辺住民を含む死者17人、重軽傷者210人を出す惨事となった。今も学校は住宅密集地の中にあり、墜落があれば同様の事態を招く恐れがある。
校内にひっそりと立つ「仲よし地蔵」。素朴な方形の塔に紫と白の花が供えられ、犠牲者の霊を慰めていた。比嘉さんは手を合わせた後、「日本政府は、このひどい現実を半世紀以上も放置している。沖縄人の意識に独立志向が脈打つのは当然のことです」と言葉に力を込めた。
比嘉さんとともに沖縄独立を訴える、沖縄靖国参拝違憲訴訟の原告団長を務めた彫刻家、金城実さん(73)の読谷村のアトリエへ行く。壁面には「琉球の独立を!」と大書したビラを張っている。集会で参加者に配っているものだ。
<そろそろ日本に見切りをつけ、独立を目指そう。私たちの頭ごしに日米間で『密約』し、『合意』し、あらゆる沖縄の負担を『誠意ある約束』として、私たちに押しつけようとしている>。ビラの文面に怒りがにじむ。金城さんは「日米政府に抗議を繰り返しても解決にならない。沖縄住民が決断する時です」と大きな声で語った。
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別稿のように、琉球独立論は72年の日本復帰前から沖縄の知識人の間で議論されてきた。だが米占領下の圧政から民主主義国に生まれ変わった日本への期待は大きかった。那覇市の沖縄県立博物館で開催中の復帰40年展を見学すると、復帰運動の写真とともに「日の丸は『抵抗・自由のシンボル』として意識されるようになった」との説明がある。復帰の結末が期待と正反対であることに、本土側は赤面せざるを得ないだろう。
復帰後、独立論は再燃しては下火になる。映画「GAMA 月桃の花」の音楽などで知られる那覇市在住のミュージシャン、海勢頭豊(うみせどゆたか)さん(69)が当時を述懐する。「沖縄戦の教訓は、平和は何より大切だということです。平和憲法を掲げる日本を信じたい気持ちが沖縄にはあったのですね」
「ところが、どうです」と海勢頭さんは苦渋の表情を浮かべた。「基地問題の解決どころか、日本は憲法を変えると言い始めました」。海勢頭さんも近年、独立論に傾いているという。
沖縄の諸問題を論じる季刊誌「けーし風」の編集委員、岡本由希子さん(45)は、民主党政権になっても基地政策が変わらないことが多くの人の心を折ったと見る。「もう日本の政治に期待しようがない。そういう状況に追い込まれたのです」
若い世代はどうか? 那覇市議の平良識子(たいらさとこ)さん(33)は「独立も選択肢の一つですが、自分たちが幸福になれる社会を沖縄に実現させることを優先したいという思いが、40、50代以下には強い」と話す。
国連の人権機関などに辺野古への基地押しつけを含む沖縄の人権侵害状況を訴える活動をしてきた。その結果、日本政府は国際人権法に基づく報告を余儀なくされた。平良さんは「国際世論の応援を得て、沖縄の自主性を高めていきたい。その先に自己決定権の回復がありますが、その形が独立か自治かはこれから考えればいい」と語った。
那覇市内では「チバリヨー(頑張れよ)、東日本」とのステッカーを張った車を何台も見かけた。本土からの観光客を迎える沖縄の人々が笑顔を絶やさないことにも、胸が痛む。その心の奥にわだかまっている問題に、本土側はいつまで知らぬ顔を決め込み続けるのか。
◇沖縄独立論
1879(明治12)年まで「琉球王国」として存在してきただけに、沖縄には長く独立論がある。1972年の日本復帰前は、在沖縄米軍基地が残ることなどがわかり、無条件に復帰すべきでないという「反復帰論」が唱えられた。論客として新川明(あらかわあきら)氏(元沖縄タイムス社長)らが知られ、復帰後の自治・自立論にも大きな影響を与えた。95年、米兵による少女暴行事件、大田昌秀知事(当時)の米軍用地の強制使用に関する代理署名拒否などがあり再び議論が活発化したが、97年には新崎盛暉(あらさきもりてる)氏(元沖縄大学学長)が当時の独立論を「居酒屋談議の域を出ない」と批判し、論争となった。現在も沖縄では、地元雑誌などで独立や自立について活発に論じられている。
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