討議資料
琉球新報 2011年5月18日
沖縄を愛した竹中労 没後20年に寄せて 2 知名 定男
体張り沖縄民謡語る 琉球フェス重ね種まく
竹中労の屈強な体に罹患したのは肝硬変、高血圧、糖尿病、腹膜炎。後に肝臓がんまで発覚。「余命3年 長くて5年」と医者から宣告されると「成人病見本市」とシャレのめしつつ「死ねばよいがな ただは死なんぞ」。国内外と飛び回り八面六臂に活動を続行していた。1991年4月、がん末期状態で大好きな沖縄ルポルタージュを側近に要請、しかし行けばハードなスケジュールだけに生命が危ういと医師が言うも「限られた命を存分に生きてこそ満足な死を迎えられる」。風と水のリズムに身を任せ、車椅子で看護婦を同行させて首里にある小生の三線教室を訪問。沖縄市(旧コザ)では旧知らが歌・三線で歓迎、感極まりカチャーシーを躍って周囲を驚嘆させた。風の訪人は見果てぬ夢に翔び、来しあの邦この人と出会い「硬骨のルポライター」の神髄を発揮、壮絶に生きてきた。その竹中労も91年5月19日午前9時58分、力尽き、遥か彼方へ帰らぬ長旅に発ってから、早いもので20年になる。
かりゆしクラブのトップへ行く