独立へ力と英知結集を 看過できぬ基地強化と差別 浜川登
戦後70年余、沖縄は日米による基地運用の2重の基準の中で、日常的に基地問題にさらされてきた。1952年4月28日サンフランシスコ講和条約発効で施政権は日本国から切り離され、米国軍政統治下におかれ、生産の基盤である土地は収奪され基地にされた。
日米政府は基地負担軽減は名ばかりで、基地集約と称して機能の強化高度化をもくろんでいる。普天間飛行場移設、辺野古基地建設、高江ヘリパッド建設、伊江島補助飛行場増設工事さなか、過日高江のヘリパッド建設工事阻止行動現場で、県外の機動隊員が差別的言葉を発した。琉球処分以降も潜んでいた差別意識が表面に出た。同じ国民として、到底看過できるものではない。
第2次大戦後多くの植民地が独立への道を選択する中、なぜ沖縄は独立の選択ではなく、祖国復帰だったのか。
ベトナム戦争が始まり沖縄の米軍基地は拡大され、基地問題も多発した。このような状況下で個々の市民団体の復帰運動は始まっており、一方教職委員会校長部会は、教育界も戦争で壊滅状態の中、教育環境、教員の待遇改善などを目標に動きだした。運動の中心的存在となり、個々に運動していた市民団体も沖縄県祖国復帰協議会に集約された。
祖国復帰運動は視点の先にある利害、生活環境の維持という思惑が一致へと働いて広がっていった。祖国復帰運動は、琉球処分から戦前戦中と差別された琉球人の、本当の日本人になりたいという願望、意識の働きから始まったのだろうか。
経済的に貧していた当時の沖縄の状況から、その方向へ寄っていくのも心情的には理解はできよう。他方大勢を占めていた勢力の方に慎重さと将来の沖縄の形への想像が欠けていた。それは沖縄の文化歴史をないがしろにし、幻想の祖国へと走った判断でなかったか。
復帰で逃した沖縄県独立への道を目指し、琉球民族の力と英知を結集させるべきまたとない時が来た。戦前から差別を受け大戦中も過酷な体験を強いられてきたことが独立の根拠だ。
経済的自立を危惧する指摘もあるが、多くの調査から基地に頼る経済割合はたったの5パーセントにすぎず、これは経済的自立が可能なことを示唆している。
日米両政府の理不尽な行いにあらがい、琉球人のアイデンティティーを確立させるべく、ここに独立を宣言すべきだ。(豊見城市、73歳)
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