琉球独立論資料

オキナワグラフ 1961年3月号 この人の主張を聴く その1

琉球独立論 国民党総裁 大宜味朝徳氏(おおぎみ ちょうとく)

 言論の自由と言う合い言葉はよく流通しているが、流通していないのが言論の自由である。だから沖縄社会は流通の悪い不健康な体質を抱え、いつもモヤモヤしつづけている。米軍政下という制約、その上に累積された複雑性が喊口令の役割をしていることも否めないが、もう少し民主的に思うこと位はズバリ言ってノケてもいいのではないだろうか。
そこで今月から、声にならなかった声を聴くために 〝この人の主張を聞く〟という本欄をもうけた。各階層の人に登場希って、思うこと考えていることを、歯に衣着せずズバリ言い放ってもらう仕組みである。今月はそのトップバッターとして、日本復帰の大勢に抗して、琉球独立論をブチ続ける国民党総裁大宜味朝徳氏にご登場願った。本欄が一服の清涼剤になり、口頭禅のような沖縄の民主主義社会の体質改善に役立つことを期待したい。



◎日本復帰はできない◎
 我々は党の綱領宣言にも述べてある通り条約により日本復帰はできないと確信している。然るに住民の殆どが誤った指導者にリードされて、復帰、復帰と叫んでいる。全くナンセンスである。琉球は今や建設復興の極めて重要な時期である。この時期に為政者や指導層が先見の明を欠き、政治の方針をあやまり、琉球の大綱的基本的問題の解決を怠り、できもしない日本復帰、日本復帰と不必要な摩擦や対立を激化せしめ、琉球政治を混迷に追い込み、琉球政治を後退せしめているのが琉球政治の現状である。琉球住民の不幸これより大なるものはない。

 然らば我々の主張の根拠を明らかにしよう。まづ今次大戦に際し日本の敗戦、無条件降伏に依り日本はカイロ宣言、ポツダム宣言又一九五一年のサンフランシスコの講和条約を承認している。これら三条約に依り琉球は完全に日本から分離されている。これらの国際条約は我々の感情や個々の希望によって改正出来る問題ではない。

 即ちカイロ宣言の中には「日本はその略取した一切の地域から駆逐される」と言う条項をハッキリ認めて之を実行した。日本がもともと自国の領土でなかった一切の地域即ち戦争其他に依り取り上げた朝鮮、満州、千島、樺太、琉球、台湾、南洋群島はそれぞれ日本の領土を離れ、世界地図は塗り代えられた訳である。琉球も独立国であったが、明治五年に日本領土に編入され、琉球の尚泰王は華族の称号と土地を貰って東京九段に移ったのである。若し琉球が日本の領土であったと言うならそれは明治五年から終戦迄の八十年間だ。この八十年間の領土が今次戦争で日本の敗戦、カイロ宣言、ポツダム宣言の受諾に依り琉球はマルマル日本から解放離脱したわけである。

 ポツダム宣言でも「日本は本州、四国、九州、北海道及其付属島嶼に限定される」と云う条項で琉球が日本から分離されることを認めている。

 更に一九五一年サンフランシスコで開催された講和条約により琉球のあり方は琉球が日本から離れたことを条約の上に明文化された。すなわち講和条約第三条には米国は琉球住民に対する行政、司法、立法並びに管轄につき一切のあらゆる権限を行使する権利を有すると明文化されている。この条約から見ても琉球は完全に日本から離れ、米国の完全統治下に置かれた訳である。しかもこの条約は米国、日本を始め世界五十か国が加盟調印されている

 これは変更できないと云うのが我々の"日本復帰はできない"と云う根拠である。しからば現実はどうか、米国は琉球に対して如何なることをやったか、これを見れば一層ハッキリと米国は琉球を永久に離さないと云うことが明らかになってくる。

 米国は琉球に対して既に基地施設として七億弗を投じ、アジアにおける防衛地点として確固たる地盤を築いた。然もその施設は米国々内と全く同様な恒久施設がなされてをり約五万の米軍将兵家族お含む立派な米国社会も出来上がっている。

 一面米国は琉球に対しガリオア資金(占領地救済資金)により一九四七年より七年間に約二億弗が琉球の復興援助資金に投じられており、さらに一九六一年度からは毎年六〇〇万弗の経済援助が決定されている。
 以上国際条約の上から又現実の問題として米国が琉球を手放し、日本に返すと云う事は、到底考えられぬことである。

◎日本復帰は住民に不利◎

 一体日本復帰したら琉球はどうなる。住民は決して幸福にはならない。具体的な事例を挙げてみよう。

△米国の経済援助の中止
 米国は施政権者として琉球に対する経済援助をなしている。日本復帰したら施政権者としての義務がなくなるから復帰した其の日から琉球に対する米国の経済援助は中止される。従って琉球経済の八〇%を占めていると云う基地収入も無くなる。

△諸事業は総崩れする
琉球は戦後米国の経済復興資金援助により各種の主要産業は自立経済の方向を目指して整備されてきた。銀行、保険会社、船会社、石油会社、製粉製油、味噌醤油、ビール会社、製糖事業、パイン事業、製菓製麺、鉄工業、造船業、近く紡績業、セメント事業も実現し琉球の自立経済体制は漸く軌道に乗り、これから輸出貿易に志向をせんとする時期にきている。この時にあたり日本復帰し日本の大資本家が入り込んできたらこれに圧倒され、銀行その他主要会社は皆日本の大資本に吸収合併される運命に会い、折角今迄苦労して築き上げた琉球の産業経済機構は総崩れする。

△六万人の軍作業員は職場を失う
家族を含めて三十万人が生活の道を失う。

△官吏の失業続出する
 日本復帰すれば昔の沖縄県庁になるのだから管理も二千位となる、琉球政府は今約一万人の官吏を抱えている。日本復帰したらこの管理八千人はすぐ失業する。又知事も各局長も上役は皆日本から来て琉球人は下役に追い込まれる。

△大島や日本から自由に労働者が入り込んでくる。
 現在でさえ琉球は人口が多く移民問題や本土就職問題で上を下への大騒ぎをしている。日本復帰したら日本各地から自由に労働者が入り込んでくるので労働市場はいよいよ混乱してくる。

△商売人は押しつぶされる
 日本復帰して日本の大商人が入り込んできたら、今琉球人が経営している百貨店を始め各種商工業はこれに押しつぶされる。サービスの面其他色々の面でたちうち出来ない。
これは戦前の琉球経済を見ればすぐわかる。店は仲村渠呉服店だけで其の他は皆日本からの寄留商人のためにあり、琉球経済は完全に彼らに握られていた。

△負担荷重になる
琉球に対して米国は琉球の復興に資金援助はしているけれども税金は取り立てていない。日本復帰したら国税其の他税金は負担させられる外、専売益金は吸い上げられ更に防衛費や各国への賠償金も負担させられる。貧弱県への国庫負担があると云って民衆をだましているが、それは税金其他国庫に納入される金額以下であることを考えるべきである。

△新事業が不振となる
 日本復帰すれば水が下流に流れる如く琉球の資金は日本に流れていき、琉球には資金が窮迫して事業が不振となる。現在は銀行預金も保険会社の掛け金も日本に流れることなく、その資金はまた琉球の産業資金に還元されて琉球産業の進展に大きな役割を果たしている。

△自由に企業ができない

 日本復帰すれば総て日本経済のワク内でしか事業はできない。琉球人独自の活動ができなくなる。ハワイ、アメリカを視察した人たちの其土産話の中に布哇、アメリカの沖縄出身実業家の間に琉球国民党の独立論に関心の高いのに驚いたと言う話があったが、これは当然なことである。ハワイ、アメリカに在住する沖縄人は今や立派に成長している。経済面においても国際人として何れの国の人とも競争して負けない見識と実力と手腕を有している。これら二世、三世の中には今後沖縄の舞台を中心に国際舞台に活躍しよううとする雄図を持つ人々が多い。これ等の人々は折角米国の援助に依り琉球人が世界を舞台に活動出来る機会を持ちながら何を好んで昔の日本の一県になり、自ら自由な活動を制限する血迷った考え方に賛成する筈がない。国際戦に自信のある琉球人は皆琉球独立には双手を挙げて賛成である。海外にいる琉球人の動向は大いに注目してよい。

△孤島に逆戻りする
 戦前の琉球はソテツ地獄、孤島苦で表徴された島であった。孤島経済に苦しみ続けてきたのが琉球伝来の姿であった。暴風で船が十日も二十日も欠航すると貯蔵米もなくなり、五十銭の米が三倍にも四倍にも値上げさせられ、十銭の煙草は二倍、三倍にもなり、其他一切の食料品が其都度値上げで苦しめられ、又商人はこれで儲けていた。この孤島経済の悩みを満喫させられたものである。しかるに今日はドウカ。米国の支援により米は全琉住民の食糧米は半か年又は一か年分の保有米を有し、ドンナ暴風があっても米の値上がりすることなく、安定した生活ができ、戦前の孤島苦は解消されている。然も米や石油はプール制になり全琉到る所、山原の山奥でも八重山の波照間迄も同一値段で買えるようになっている。日本復帰すれば昔の孤島苦時代に逆戻りする公算は大きい。

◎孤島苦の琉球◎
 日本領土時代の琉球と米国統治下の琉球を比較する上からもここで一応日本時代の琉球を回顧して見よう。

 戦前の琉球は「ソテツ地獄」「孤島苦の琉球」と云われ、全く文化的に取り残された島であった。県の税外収入と云えば波止場の桟橋賃だけであった。経済界は銀行、保険会社、海運会社みな日本に本店を持つ会社の支店で集めた金は皆日本に持っていかれた。琉球に金のあるのは砂糖時期位のものであった。大学や専門学校一つなく、国有鉄道一哩もなく国費で負担する国道は那覇から県庁までの一線であった。

 重税で農家の困窮は極端であった。娘を赤線に売って生活を続けているのも多かった。学童は紙文具が買えず県会で問題になった時代もあった。県の財政は、明治の中頃の沖縄県庁の予算を見ると歳入六十五万五千円に対しその内沖縄県庁の費用は四十五万五千円で二十万円は日本政府へ納入されていた。

 戦争直前迄沖縄から日本政府へ納める税金は五〇〇万円に対し補助金その他で日本政府から沖縄へ還元される額は二〇〇万円程度であった。それで沖縄は年々三〇〇万円の赤字を出した。これを僅かな海外送金によってバランスをとっていたが、結局年々衰徴の一途を辿り遂に沖縄振興計画の名目で年々百五十万円を沖縄へ還元せしめようとした。これが過去の琉球経済の姿であった。

 さらに政治の後進性からくる琉球人への差別待遇、その重圧は大きかった。沖縄出身の官吏は判任官で釘付けされ、警察官も巡査部長以上はなかなかなれないと云うのが行政上の不文律であった──これは四十才以上の人なら誰でも経験している筈だ。二、三の高官は出ても之は異例である──沖縄人は頭は良くても腕があっても結局は高官にはなれぬと云う実情であった。

 海外に出稼ぎに出かけた沖縄移民はこの差別待遇問題で斗い続けて来た。これが過去半世紀の移民悲史である。
 この事実は今の若い人は知らないが全く悲惨なものであった。沖縄人と云われるのが恥ずかしく日本名に名前を代えた人もいる位であった。
 これ等の点から考えても日本から解放された琉球人は褌を締めなおして立ち上がるべきである。

米琉合作好調
 吾党は其綱領の中にも米流合作により琉球の復興を図ると述べている。これは既にハワイ帰りの同胞が大きく琉球の産業経済の上に輝かしい業績を挙げ琉球の進展に寄与している。これは今後共これを助成することに依り琉球の今後に大きな期待を持たれている。
 パイン産業、今や砂糖に次ぐ琉球の主要産業になっている。これも従来小規模な経営であったものをハワイ式の大規模な大工場を始めたのはハワイ帰りの伊芸満栄氏であった。今日琉球パインの大恩人と云うべきである。

 米軍に納入する清浄野菜、これも当初は米軍は相手にしなかったが、ハワイ帰りの久保田清栄氏が人糞を使わないで野菜を作った。これが評判になり現在では各地に清浄野菜組合ができて駐留軍に納入する外、今やグァム島、韓国にも輸出され年産一万弗を突破している。
 養豚養鶏もハワイ式が大きく導入された。ハワイの養鶏王伊芸氏も沖縄で近代式の養鶏業を開始し業績を上げている。
 ホノルルで写真業をやっていた屋比久孟吉氏のベストソーダ会社、同じく運送業をしていた与那城村出身比嘉悦雄氏のペプシコーラー会社、高嶺村出身のハワイ帰り上原秀雄氏の普天間にあるボーリングセンターも東洋一と好評を受けている。

 最近はホノルルで百貨店を経営する赤嶺氏がリユサンズ会社を結成、沖縄本島の東海岸泡瀬港に浚渫船をもって十万坪の埋立てに着手され、ここにはアメリカ式の新市街のモデル都市建設も企画され、横浜と並びドックの施設も計画され、米流合作事業は一九六一年を期して、面目一新の躍進が期待され、沖縄を足場とする企業が東南アジアへの進出も全く夢ではなくなった。

 今後の琉球のあり方は琉球国民党の主張の方向に着々結実していきつつある事は喜びにたえぬところである。
 今次の世界大戦に依り世界地図は一変した。この時にあたりハワイ、グァム、琉球を結ぶ一連の太平洋地域は今後の世界平和の上に大きな役割が付加されてきた。
 今や我が琉球は東洋のジブラルタル、東洋のマルタとして世界的な脚光を浴びてきた。
 我々の観念から既に過ぎ去った古色蒼然たる日本復帰論や日本の一県的視野では解決できない迄に進展してきたのが、琉球の今日の姿である。
 今や我琉球の政治は大統領命令によって高等弁務官を通じ米国大統領に報告され、米国議会に報告されることになってる。換言すれば琉球の政治は米国議会に直結している訳である。吾が党は今後とも

正しい理論に依り米琉合作の政治を大きく推進し南方を制覇した我々の祖先の偉業を現代に実現せしめたいと云うのが吾党の志向である。
 従って琉球国民党の政策は一国としての構想の下に政策も打ち出している。自由諸国家との提携強化、琉球自衛隊の創設、基地、慈善病院、養老院を国営にして人生の安全保障の実現、英語教育の徹底的普及、琉球の立地条件を高度に発揮する水産業の振興、労務賃金の文明国の水準化、国際的な観光地の実現、琉球の工業化、内政の改革刷新を主唱しこれらの実現を期している。

 フィリピン、ハワイの繁栄も米国との提携に依るものである。我が琉球も又米国の援助により高度に進歩した米国文明に参加することが出来ると確信している。
 日本復帰を唱える者は自ら政治を行うことのできない政治的無能力者の云うことだ。自己を卑下するものは国を滅亡に導くものである。琉球を救うものは琉球人自身の自信の回復が第一義である。

 琉球国民党に栄光あらしめるよう米国を始め広く世界の自由諸国家に訴えたい。
(原文のまま)


THIS IS WHAT I THINK
Starting this month, Okinawa Graph will start a
new column entitled  "This Is What I Think "
which Will be devoted to providing space for Oki-
nawans of all walks of life who wish to voice their
opinion on the multitude of problems confronted
by contemporary Okinawa. It is our desire that
this column Will provide a common arena in which
constructive opinions Will be aired, Selected to be
the first speaker is Chotoku Ogimi. president of
the National party, who is strongly opposed to the
idea of Okinawa being returned to Japan and ins-
tead advocates her complete independence.


大宜味朝徳琉球独立論 オキナワグラフ 1961年3月号


大宜味朝徳琉球独立論 オキナワグラフ 1961年3月号


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