自治の背景として市民権 時代結ぶ同州制論議 独立をめぐって (上) (下) 仲地博
<復帰35年・揺れた島 揺れる島>「独立」をめぐって
自治の背景として市民権 「代理署名拒否」経験血肉に
最近興味深い数字がある。一つは、去る知事選で琉球独立党の看板を掲げて立候補した屋良朝助氏に投じられた6200票である。保守県政の継承なるか野党知事が誕生するか全国注視の下、メディアは仲井真弘多、糸数慶子二候補の政策と動向をクローズアップし、独立党はその中に埋没した。地盤・看板・カバンとも無きに等しい候補が獲得した6000票は、多くの人にとって予想外ではなかったか。独立党自身も、大躍進と総括し勝利宣言を行っている。
もう一つは、林泉忠琉大助教授による住民意識調査で、独立を支持するのが24%という数字である。これは二年続けての調査で、昨年も同じような数字が出ているせいであろうか、この調査を報じる本紙は比較的地味な扱いであり、強調されたのは、若者に独立支持が少ないという点であった。しかし、前年と同じ数字が出ていることは、調査時の特別な事情による突風的支持率ではないことが裏付けられたことになる、4人に1人が琉球独立に少なくとも共感しているということは、復帰35年の沖縄社会の一面をよく示しており、報道はこの点を掘り下げるべきだったと思う。
空気の変化
ひるがえって、独立党の屋良の得票率を見ると、投票者の1%以下であり、独立支持派を結集できなかったことを示している。その視点からすれば、屋良の獲得した票は意外と小さいということになる。独立党は、なぜ独立支持派の票を結集できなかったか。
一つは、選ばれる側の問題、すなわち琉球独立党の足腰の弱さでその存在と政策を浸透させえなかった、あるいは、有権者の信頼を獲得するレベルに達しなかったということ。二つは選ぶ側の問題、すなわち、独立支持は理念や願望のレベルであり、現実の政治選択ではないと判断していること、のどちらか、あるいはその両方ということになろう。
もう一つの数字がある。1971年復帰を翌年に控えた参議院選挙に、独立党の崎間敏勝氏が打って出た時の得票である。崎間は、琉球政府系の金融機関である大衆金融公庫総裁を務めた戦後沖縄社会のリーダーである。その崎間をしても得票は2600票。今回知事選は、71年参院選に比べ「(屋良は)実質ゼロからのスタートであるにもかかわらず(崎間の)二倍以上を獲得し」大躍進(独立党の総括)ということになる。独立をめぐる空気は復帰の際と現在と変わったのだろうか。
復帰リーダーが警戒
復帰運動は、沖縄住民のみならず国民的な奔流となり、それに抗する独立論は異端以外の何者でもなかった。沖縄自治憲章をめぐる次の挿話がそれを示唆しよう。
1983年ごろ、地域主義を唱えたことで高名な玉野井芳郎氏(当時は沖国大教授)が、沖縄自治憲章の制定をもくろんだことがある。今、全国の自治体で静かなブームとなっている自治基本条例の走りであり、20年以上前にそれを試みた玉野井の先見性をよく示している。
玉野井は、「平和を作る沖縄百人委員会」を舞台にして自治憲章制定運動を行うことを考えていた。百人委員会とは、研究者、ジャーナリスト等による啓蒙的団体で平和運動や環境保護問題に大きな影響力を持っていた。その百人委員会で玉野井の自治憲章はコアとなるメンバーの賛同を得ることはできなかったのである。「独立をしようというのか」「こんなものを作ると、沖縄はまた戦前のような特殊な地域になって差別される」「もし国に訴えられたらどうするか」というような反対論であった。
百人委員会のコアメンバーは、復帰世論のリーダーであった。日本国家を求めた復帰思想が、地域の個性を最大限に発揮しようとする玉野井の自治憲章に、独立論的傾向を読み取り警戒したのである。
事大主義の克服
復帰とは、日本の国家体制に組み込まれることを意味し、復帰運動は保革を越え多様な潮流を飲み込んでいたが、その公約数は基地のありようを含め本土なみの普通の県になることを求めた運動であった。復帰10年に、普通の県かそれとも地域の個性を宣言するか、自治憲章をめぐっての同化と異化のせめぎあいが生じたのであった。
復帰35年を迎え、独立論は、政治的影響力はともかくとして、排斥ないしは無視してよい異端ではなく、自治・自立論の一つ、あるいはその背景にあるものとして市民権を獲得しつつある。
復帰から今日までに独立をめぐって意識の変容があるが、それを引き起こしたものは何か。沖縄の県民性といわれた事大主義の克服が大きいように思う。そしてそれに貢献したのが、95年の大田昌秀知事(当時)の代理署名拒否である。国は、基地の安定使用をめざした。知事に署名を命じる首相、知事敗訴にした最高裁判所、沖縄にのみ適用される特別法を制定した国会と、次々とかぶさってくる国の権力に沖縄は正面から立ち向かった。この経験が、沖縄の自立精神の血肉になったのであろう。
時代結ぶ道州制論議
琉球政府の経験もモデルに
安倍晋三首相は、3年以内に道州制のビジョンを策定すると宣言し、担当大臣を置いた。その諮問機関で、今月中にも本格論議がスタートする見込みである。道州制は、国の貌を変える大改革である。
経済が停滞したころ、道州制は閉塞感を打破する処方箋の一つとして国民にも自治体にもいくばくかの期待感もあったが、安倍首相が、期限を切って政策の正面に据えるとともに警戒感が広がってきた。
日本世論調査会の調査で、一年前に47%あった道州制賛成は、現在29%に激減した。知事会においても賛否は割れている。都道府県制は、120年の歴史を持ち国民に定着しており、それを変える必然性が十分に理解されておらず、さらに未知のものに対する不安がある。
道州制が一気呵成に進む状況ではないが、国と自治体の財政状況は厳しさを増す一方であり、行政機構のリストラ策として遂行される可能性が高い。しかし、道州制は効率の論理ではなく、分権の論理で語らねばならない。
実現可能性も
道州制の具体的内容はこれからの議論であるが、地方制度調査会(内閣総理大臣の諮問機関)の答申で、そのアウトラインは次第に見えてきている。すなわち、@都道府県は廃止し、地方自治体は、道州と市町村の二層制とするA道州の区域は、数県を併せた広域なものとし、北海道および沖縄県については、その地理的特性、歴史的事情から、単独で道州を設置することも考えられるB道州制への移行は、全国同時に行う。
一番重要なことは、国と道州と市町村の間で仕事をどう配分するかである。地方制度調査会は、現在県がやっている仕事を大幅に市町村に移譲し、道州は、広域的な社会資本整備や環境保全、経済政策などの仕事を行うとしている。
道州制は、全国的な議論が必要である。道州制についての議論は、沖縄ではまったくゼロからのスタートというわけではない。一つは全県民的な議論を重ねた国際都市形成構想の経験がある。また、沖縄は、道州制のモデルとなる実験をした経験もある。琉球政府である。
まず、10年ほど前に華々しく議論された国際都市形成構想がある。1990年登場した大田昌秀知事は、知事就任当初から「国際交流拠点の形成」を重要政策としていた。当初は、文化や学術の側面に重点がおかれたが、国際都市形成構想として、次第に経済政策の性質を強め、21世紀沖縄のグランドデザインとして位置づけられた。当時の沖縄の政治力を背景に、国政与党が「一国二制度的な大胆な改革を目指す」と合意したように、実現可能性も仄かに見えたかのようであった。
作られた幻影
この構想は、全県自由貿易地域、税の減免、規制緩和が柱をなした。すなわち、国の中における経済特別区構想であり、そしてそれにとどまり、自治特別区の構想に発展する時間は与えられなかった。にもかかわらず、かもし出す雰囲気は、まぎれもなく道州制あるいはそれを越えるものであった。
例えば、篠原章大東文化大教授は、次のように述べる。
「(国際都市形成構想)は、沖縄独立宣言の草稿なのである。国の権限である関税権や出入国管理権の一部を沖縄に委るということは、一国二制度どころか国境の変更を意味している。沖縄は、日本の枠内での特別扱いを求めているのではなく、あくまで日本の枠外においてほしいと主張しているのである」と。
このように国際都市形成構想における一国二制度は、国と県の間の権限の再配分という面では手付かずではあったが、都道府県の枠組みを飛び出し、自立性の高い地域の幻影が作られたのである。そういう意味で国際都市形成構想は、未発の道州制であったと言えよう。
司法権も行使
沖縄の経験の二つ目は、復帰前沖縄に存在した琉球政府である。琉球政府という用語は、二つの意味で使われている。一つは琉球の統治機構という意味であり、これは日常に使用しておりわかりやすい。もう一つ。最近、県や市町村を地方政府と呼ぶ人々がいる。この立場では、国と県の関係は政府間関係と表現される。琉球政府という用語もこの意味、すなわち政府が、組織や機構ではなく、統治権を持つ団体を意味するのである。
琉球政府の経験が、道州制の議論に役立つ一例を挙げよう。
琉球政府は、司法権も行使した。司法に関する仕事は地方自治法上、国の仕事とされていたが、地方分権一括法により改正され、国の仕事とする明文はなくなった。したがって、自治体が司法権を有するかどうかは、憲法解釈の問題であることが明確になった。沖縄自治研究会が起草した「沖縄自治州基本法」は、沖縄自治州裁判所を構想している。
道州制論議は、復帰35年目に沖縄の過去と未来を結ぶものとして登場してきたのである。
(沖縄タイムス 07.1.30−31) テキスト他サイトより引用