映画シンポジウム「さらば、幻視の祖国よ!」
■ 映画シンポジウム「さらば、幻視の祖国よ!」(1972年1月)
22日 試写会(那覇市民集会所)
24日 琉球大学
27日 那覇市沖縄タイムスホール
29日 名護市教職員会館
30日 コザ市中頭教職員会館
◇パネルディスカッション:
新川明・川満信一(沖縄タイムス記者)、中里友豪(劇団創造)、野底土南(琉球独立党)、
平山良明(沖縄歌人クラブ)、布川徹郎、竹中労。 司会・吉本隆生(那覇シネクラブ)
◇上映実委:
宮城賢秀、大城正男、黒川修司、、
※参考/竹中労著『琉球共和国』249頁(ちくま文庫 2002年)
当夜(※1972年1/27 那覇市沖縄タイムスホール)、沖縄娼婦の生きざまを描いた『ムトシンカカランヌー』、在韓被爆者の記録映画『倭奴へ』、二本の長編ドキュメントが上映された。ムトシンカカランヌーとは、元手の要らない商売、すなわち娼婦、やくざを指す沖縄の陰語である。そして倭奴は、朝鮮人が日本人を罵って言う差別用語、いずれも公序良俗の埒外にある。
観衆である若者たちは、この映画に烈しい拒絶反応を示した。
彼らはおおむね新左翼の学生であり、・沖縄奪還・・沖縄解放・をスローガンに掲げるセクトに属していた。
たとえば、こう言うのである。
「どうしてこんなキタナイ映画を、君たちは撮るのだ?売春というのは最低の職業じゃないか、肉体も精神も腐り果てた売春婦を、沖縄の恥部を曝して何が面白いのだ。もっと美しいものを、労働者や人民の英雄的な基地反対、米軍との闘争を、なぜ君たちは撮ろうとしないのだ?」
こうも言ったのである。
「これは反革命映画である、人民を指導する理論を持たないから、朝鮮人被爆者とかパンパンといった、一部の人間の悲惨しか描けないのだ。しょせん、ルンペン・プロレタリアートなんざ、革命の主体にはなれないんだよ。落ちていくものは落ちていく」
一部の人間と言いきれる、その惨心が部落・朝鮮人・芸能への差別を産み出す。
人間はどん底まで落ちても、いやその奈落にあってこそ、虚飾なく人間であるということを、たとえば辻のジュリグワーたちのように、切々たる哀歌を(あるいは底抜けに朗らかなリズムを)創ることができるのだ、という認識を欠落して、いったいどこに真人民の桃源を、万物斉同の彼岸を見ることができよう!
私は一つの光景を回想した、この眼で現認した沖縄の恥部を。
全軍労のピケが張られた嘉手納の基地ゲート前に、酔ったAサインバー(GI相手の酒場)の女が、パンティ一つであらわれ、「うちらの商売をどうしてくれるのよ!」と金切り声をあげた。労働者・学生たちはゲラゲラ笑い、キチガイ帰れと彼女を罵った、中には石を投げる者までいたのだ。
ムトシンカカランヌー、革命の公序良俗からこぼれ落ちる、被差別の窮民たち、そこに河原乞食とかつて呼ばれた芸能者のふるさとはある。沖縄は政治の島であるよりも、人間の島・芸能の島でなくては…
竹中労著『琉歌幻視行』65頁(田畑書店 1975年)
(ついでに、興味深い部分・・・)
五月十五日、「復帰」を待ちわびる沖縄の人々、その心中には長時間にわたって往来の不自由から解放されたい、という強い願望があるのだろう。
唐ぬ世から大和ぬ世、大和ぬ世からアメリカ世、
沖縄は・吾御主・をとりかえることで、よどんだ時の流れを転換してきた歴史を持つ。言葉を換えていえば、この島に・革命・はなかった。私は琉球の人情風土なべてよしとする立場をとるのではない。むしろ、その逆である。沖縄人はしんじつ阿呆であるまいか、すくなくとも政治的には劣等種族であると思いつづけてきた。
歌、三絃、おもろ、紅型、壷、漆器、上布、
かくもすぐれた文化を創造する能力を持ちながら、異民族支配に甘んじてきたのは、けっきょく彼らが決定的な時点で常に闘うことを恐れ回避してきたからに他ならない。
1970年12月20日、コザの街を焼いた・暴動・も瞬時の反乱に終り、いま残された唯一最後の財産であるもろもろの固有の文化すらを、沖縄人はヤマト帝国主義擬制の・繁栄・とひきかえにしようとしている。つまり、われわれ旅人を蠱惑にさそう歌舞芸能のうちにこそ、実は沖縄が永久に植民地としての支配を受け続けてきた要因が発見できるのではないか?私には次第にそう思えてきたのだ。
あま見くま見という方言は、きょろきょろ−右顧左眄という意味である。
琉球の〈うた〉の歌詞には、この方言がよく使われている。沖縄人の特性はつまり、あま見くま見の日和見主義といったら酷にすぎるだろうか?また、開放的なとため息が出るほど直截な情歌・春歌の詞の表現は、やはり政治的禁治産者の烏滸の所為と見るべきか?
同書167頁
・・私はむしろ「モトシンカカランヌー」という作品が、文字通りモトシンカカランヌー(娼婦・やくざ)の怒りを激発し、スクリーンを切り裂かれフィルムを焼かれるという事態こそ、心中ひそやかに望んでいたのだ。そう、彼らにはその権利がある。彼らの世界に不遜に入りこんで、勝手なルポルダージュを書き、映画を撮っていく大和の糞ったれども、布川徹郎や竹中労をたっくるす(たたき殺す)理由が、彼らにはある。
『琉球共和国』251頁(ちくま文庫)
「キミはどうしてヤマトから輸入された論理でヤマトンチュである私を撃つのか?いいか、キミが大和もどきのウチナーンチュであるかぎり、私は痛くもかゆくもないのだ。人民を指導するって?日本に帰れって?ハレンチなことをいうな!人民は決して指導されない!!革命は党派に裏切られてきた、沖縄の場合にはつまりキミによってということだ。もう一度いってみろ、日本に帰れだって!?笑わすなって、鼻タレ小僧め、オレが帰るまでもねぇやな、沖縄が、この島全体がそっくりヤマトに帰ってくる。イヤでも祖国よ、キミは日本人よ、そうじゃないというなら、どこに帰る!?」
・・・
普久原氏(恒男)は琉球情歌の一節を、「モトシンカカランヌー」の評価にかえた。
自儘よりなたるサカナ屋ぬ女
哀りよりなたる辻の尾類小
・・・
「あんしる考ゆるかね」(どうしてあんなふうに考えるのか)と照屋林助氏は、売春婦は「最低の職業である」という学生の意見に首をかしげた。若い民謡歌手の知名定男君は、「沖縄ではゲリラしかありませんよ、学生なんかダメなんです」とコザ暴動の夜の昂憤を語った。「ボクらの方がやるときは本気でやるんですから・・・・・」
同書254-6頁
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