討議資料

月刊日本2015年2月号

翁長知事を「左翼」とみなす愚かしさ 中村友哉



このテキスト文は月刊日本編集部のネットのブログで意味の取りにくいところを、後日一部書き換えています。(YN)
http://ameblo.jp/gekkannippon/entry-12005905162.html

 昨年11月の沖縄県知事選挙で、辺野古移設に反対する翁長雄志氏が当選を果たした。翁長氏はこの選挙戦で、共産党や社民党、沖縄社会大衆党などの支援を受けていた。そのため、日本本土では翁長氏を「左翼」あるいは「革新」と見なす声が多い。

 しかし、その認識は間違っている。翁長知事は日本からの独立を訴えているわけではないし、知事就任会見では「私も日米安保体制には大変理解を持っている」と述べている。また、翁長氏は「イデオロギーよりもアイデンティティ」をキャッチフレーズにしており、沖縄というアイデンティティに基づいて辺野古移設に反対している。その観点から言えば、翁長知事は間違いなく「保守」である。

 安倍総理は翁長知事は保守政治家であるという認識を持たなければ、今後の沖縄政策を誤ってしまうだろう。もし安倍政権が翁長氏を「左翼」と見なし、彼を排して新たな知事を擁立したとしても、その知事もまた辺野古移設に反対するだろう。それどころか、翁長氏よりも過激な知事が誕生し、本格的に独立を志向する恐れもある。

 現状はむしろ、保守政治家である翁長知事が重石になることで、共産党の一部などで高まっている独立気運を抑え込んでいると見た方がよい。沖縄が現在のような状況で済んでいるのは、保守派の翁長氏が知事に就任したおかげである。安倍総理は翁長知事に感謝すべきである。

 「沖縄は独立しかねない」という議論をすると、多くの人たちが「沖縄が独立することなどあり得ない」、「沖縄県民の多くは独立など望んでいない」などと批判する。恐らくその認識はそれほど間違っていない。沖縄県民の多くは独立など夢にも思っていないだろう。

 しかし、独立や革命とは、大多数の人々がそれを望んでいるから実現するというものではない。それは明治維新について考えればわかる。明治維新は長州藩や薩摩藩などの一部の武士たちによって遂行された。当時の日本人の大多数は維新になど何の関心もなかっただろう。それでも維新は完遂されたのである。革命とは、独立とは、そういうものである。

 それ故、「沖縄県民の多くは独立しようと思っていないので、独立する可能性はない」という議論は成立しない。「沖縄県民の多くは独立しようと思っていないにも拘らず、独立する可能性がある」というのが正しい。だからこそ沖縄の現状を軽く見てはならないのだ。

 また、しばしば保守論壇で見られる「独立を煽っているのは中国だ」という議論もあまり意味がない。明治維新の際には、長州・薩摩はイギリスから、幕府はフランスから支援を受けていた。沖縄の反政府的な行動を中国の煽動だと見なして否定するならば、我々は明治維新や近代日本をも否定しなければならない。

 そもそも、もし仮に沖縄の反政府的な運動の背後に中国がいたとしても、責めを受けるべきは日本自身である。外国による工作活動とは、火に油を注ぐことであって、彼らが全てを操れるわけではない。例えばウクライナ問題の発端となったウクライナのデモにしても、もともとウクライナ国民が不満を抱いていなければ、いくら欧米が工作してもあれほどの事態にはならなかっただろう。

 沖縄についても同じことが言える。仮に中国が工作活動をしていたとしても、彼らが工作活動をしやすいような環境を作り出してしまったのは、我々日本自身である。

 沖縄に関する日本本土のメディアの報道は、沖縄を擁護する側にも批判する側にも言えることだが、あまりにも素朴実在論的(目に見え、話に聞いたことがそのまま実態を反映しているとする考え方)である。しかし、沖縄に数年滞在したくらいでは沖縄を理解することはできないし、沖縄の人々が本土の人間に本音を打ち明けるとは限らない。現地に行くことは重要だが、現地に行けば直ちに現地のことがわかるわけではない。「沖縄のことを全て理解している」という上から目線の報道振りが、沖縄の本土に対する不信感をさらに強くしているのである。

 かつて「居酒屋独立論」と馬鹿にされた沖縄独立論、琉球独立論は、今や公共圏で堂々と議論されるようになっている。これがどれほど危険な事態であるか、我々はしっかりと認識しなければならない。

翁長知事を「左翼」とみなす愚かしさ

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