討議資料
琉球新報 2010年12月18日
第2のコザ騒動に 消えぬ民衆の怒り4 コザ騒動から40年 基地重圧
1970年当時、コザ市職員だった照屋秀伝(73)は職場の同僚にたたき起こされコザ騒動の現場に向かった。
「ほっほー、面白い」
米軍相手に商売するAサインバーのボーイなど見慣れた顔の面々が目の前でイエローナンバーの米軍車両を次々に横転させ、火を放っていた。熱いものが全身にこみ上げてきた。
「米軍にはやられっ放しだった。我慢の限度を超えていた」
沖縄戦で母親を失った。戦争につながる基地を憎むが、基地に依存し、生活が支配されている現実に悶々としていた。だが、騒動を目のあたりにして、心に押し込めてきた感情が一気に噴き出し、照屋を米軍への実力行使へと駆り立てた。
「復帰後も基地に支配されている沖縄の現状は変わらない。日本も米国と同じ侵略者だ」。照屋は厳しい口調で現状を見つめる。
騒動から40年近くがたった17日、普天間飛行場の名護市辺野古崎への移設に反対するために県庁前に集まった多くの県民の中に照屋はいた。「県内移設を撤回せよ」。プラカードを空に高く突き上げ、来県中の寛直人首相に向かって叫び続けた。基地の街が燃えたあの日の怒りは照屋の心の中で今も燃え続けている。
◇ ◇
「ついにやったか」。当時、琉球大学教授だった大田昌秀(85)は騒動をニュースで聞き、こうつぶやいた。予感はあった。県民の人権を尊重するよりも軍事を優先させる軍政に、沖縄の民衆の心にも怒りが積もっていると感じていた。
大田は普天間飛行場の県内移設に大勢の県民が怒りを示した4・25県民大会が開かれた現在とコザ騒動時の状況が重なると言う。「県内移設を決めた民主党政権の対応や、絶えない米軍人・軍属による事件・事故に苦しむ県民の怒りはコザ騒動の時よりむしろ大きくなっている。政府は歴史を踏まえ県民の怒りを理解し、沖縄にこれ以上、基地を造らないという基本線に立つべきだ」と語気を強める。
大田、照屋は取材中、何度も同じ言葉を繰り返した。「このままの状況では第2、第3のコザ騒動が起こってもおかしくない」
(敬称略)
(問山栄恵)
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