琉球独立論資料 沖縄タイムス 文化欄 2018年4月26日
この春、県立図書館の郷土資料室で面白い資料に出合った。1946年7月発行の『大琉球』という小冊子に載っている「琉球人の立場(一つの希望)」という文章で、「アメリカの友」と「日本の政治家」と「国際連合会」(国際連合)の3者に宛てて書いた体裁になっている。
以下、文章の大意ではあるが「アメリカの友」には、「貴重な芸術が沖縄にはあったが今回の戦争で灰になってしまった。しかし『純粋琉球人の手で』また生み出しましょう。どうぞただ見ていて下さい。ただしペリー提督と琉球国との条約の趣旨を今こそ生かして物資の援助はどうぞよろしく」とちゃっかり注文し、「日本の政治家」には、「今度の戦争で沖縄県民のよさがよく分かったことでしょうね。いずれ母国日本に帰るのはわれわれの理念だから、感謝・感激・真心からなる尊敬と愛情を以て沖縄県民を迎える心の準備をしておいて下さい」と「復帰」を希望しながらも強気の姿勢だ。
そして「国際連合会」に対しては、「かつて日本、清朝および米国、英国、仏国、オランダ、シャム、ビルマ、ジャワ、マラッカ等々と修好条約を結んだ琉球国です」と名乗りつつ、「しかし日本民族に相違ない、しかも平和愛好、守礼、芸術肌で日本民族の指導者たるべきものだ」と大きく出ている。さらに、「母国に帰って文明国日本の建設と世界平和に貢献するので以下の条件で日本に帰してくれ」と「復帰」に条件をつける。いわく(1)代議士の五分の一を琉球から出すこと(2)文化大臣および国務大臣などの二、三人は恒久に琉球人たること(3)外交官および文教官の約半数は琉球人たること─こうした条件がいけない場合はかつてのように独立を希望してやまない、うんぬん。
『大琉球』は戦前、那覇市牧志に那覇聾話学校を私設した屋良朝陳(1895-1957年)が同校の疎開先、奈良市で「文化琉球人会」を結成し発行したものだ。紹介した文章に筆者名は記されていないが、文末に、独立についてはすでに琉球1千年の歴史があるので自信はあるが、参考までに拙著『巴旗の曙』をご覧下さい、とあることから同書の著者、屋良の手になるものと考えて間違いないだろう。
琉球人の手で芸術を復興させるから黙ってみておけ、でも援助はよろしくとアメリカに言い、帰るから感謝して準備せよと日本に申し渡し、一定数以上の国会議員、大臣、官僚のポストを琉球人に割りあてよ、この条件が認められない場合は独立する、と国連へ注文する口ぶりに、ある種のふてぶてしさを感じて思わず笑ってしまった。現実的に考えればこのような「復帰」条件が認められる可能性は低いし、実際の政策決定者へ訴える意図をもって書かれた文章ではないだろう。『大琉球』発行が疎開先で那覇聾話学校を運営する資金作りという側面があったことを考えると、この文章も自著の)宣伝の一環だったのかもしれない。
でもこのふてぶてしさ、案外大事なのではないだろうか。今次の戦争で日本のために多大な犠牲を払った沖縄を尊敬しろというのは当時の戦争被害状況から考えてまっとうな主張だし、政治や行政の席を琉球人によこせという一見、むちゃな要求も、沖縄の意見を政治の場に代表させうる場所を十分に確保し、戦前の轍を踏まないためにはどうすればよいかという問題意識の現れだろう。そして条件が認められない場合は独立を、という意見には、沖縄の状況改善が第一の目的で、「復帰」も独立もそのための選択肢、という柔軟さがみてとれる。もっとも屋良の独立主張の裏には、立派な独立国だった琉球が「文化の程度の低い名もない島々」と同じ信託統治とされるのは耐えがたいという優越感の裏返しも指摘しなければならないだろうけど。
サンフランシスコ講和会議の前、日本から切り離されていた沖縄についていろいろな将来が想像されていた。信託統治の可能性がささやかれているなか、日本再帰属、独立、日本との連邦制という意見もあった。講和会議の結果、日本の「残存主権」がありとされつつも信託統治の提案が国連にされるまでは米軍が統治、という中途半端な状況が確定し、日本は翌1952年4月28日に主権を回復する。この日を「屈辱の日」と呼ぶことは知っていた。だが、条約発効当初からこう呼んでいたとすれば日本に対する感情の強さが不思議だった。この時期、日本「復帰」の希望はあってもその実現可能性は未知数だったからだ。どうやらこの表現の初出は1961年4月の沖縄県祖国復帰協議会の総会決議らしい。
「屈辱」という表現にはその時代特有の情念が込められている。この表現を2018年の今、使い続けることも、日本の問題を指摘するうえで意味があるだろう。だけど、両者の関係がもっと自由に想像されていた時代の言葉に接していると、「屈辱」以外の表現もそろそろ模索していいのでは、と考える時がある。屈服させられ辱められたのだとすれば、その過去の上にふてぶてしさを重ねていくような、そんな表現を。
屋良朝陳
=上地聡子=
1978年名護市生まれ。日本大学非常勤講師。近著に「敗戦直後の女性の経済活動」(2 016年『沖縄県史 各論編 第八巻 女性史)など。