辺野古の危険性現実に 証明された欠陥機オスプレイ 比嘉康文
「やはり落ちたか」。普天間飛行場の近くに住む小生は14日午前、オスプレイが墜落した名護市安部の事故現場を見てきた。そこに集まっていた人々の間でも、「未亡人製造機といわれる欠陥機であることが証明された」「いつ落ちるか分からないものは撤去しかない」などの声が聞かれた。
事故原因も解明されない中、あろうことか、米軍は「19日午後からオスプレイの全面運航を再開する」と日本政府に通達してきた。
墜落現場は辺野古新基地が建設されると、東村高江のヘリパッドでの訓練機が往来するコースの真下になる。今回の墜落事故は、辺野古新基地の危険性が現実のものになることを示している。墜落事故と同じ13日には、普天間飛行場でも別のオスプレイが胴体着陸する事故を起こしている。
日米両政府がいくら安全性を強調しても、オスプレイが欠陥機であることは明らかだ。米軍は自らその危険性を証明した。
かつて米海兵隊本部のホームページでは、辺野古新基地と高江のヘリッパッドが連携したオスプレイ訓練を紹介し、その飛行コースなどが図解で示されていた。それを社会運動家で一級建築士の真喜志好一さんが入手。その資料を持って小生は、高江区に住む松葉孝雄さんと一緒に現場確認に出掛けた。
その結果、説明や地図、図解とぴったり一致する地形を探した。辺野古を離陸したオスプレイは北上し、東村高江と国頭村との間を流れる宇嘉川上空あたりが進入コースとなり、ヘリパッドにつながっていることが分かった。
その後、ホームページから記事は削除された。恐らく、日本が米海兵隊本部に削除要請したのだろう。
今回の墜落現場もそのときに調べたコースと一致している。オスプレイは安部の集落からわずか800メートルしか離れていないギミ崎付近に墜落した。その距離は目視と違って、航空機の場合には「まばたき」程度の一瞬の時間で到達する距離である。
その前例が宮森小学校のジェット機事故だ。1959(昭和34)年6月30日午前、給食の準備中の学校に嘉手納基地を飛び立った戦闘機が墜落、炎上し、死者17人(児童生徒は11人)、負傷者は210人(うち児童生徒156人)民家17棟、公民館1棟、同小学校の3教室が全焼した。
その事故機のパイロットは海上でパラシュート脱出して無事だったが、その脱出の衝撃で制御不能となった戦闘機は旋回して宮森小学校に墜落した。パイロットは沖に機首を向けたというが、わずかな衝撃で住民地域へと機首の向きが変わったのだ。
県民は米軍機の危険性を十分知っているため、米軍や稲田朋美防衛大臣らが「不時着水」と強調しても信じる者は一人もいない。かえって「沖縄の戦後史を何も知らぬ人たちだ」と不信感が募るだけである。 (宜野湾市、無職、74歳)
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