国民の命の犠牲に頼るな 安全保障は外交努力で 比嘉康文
「生命は、誰かの持ち駒ではない」。これは、安全保障関連法案に反対する京都大学の教授や学生たちでつくった「自由と平和のための京大有志の会」の声明書にある言葉だ。私たちの命は天皇のものでも、安倍首相や自民党のものでもない。与党の公明党のものでもない。安倍政権に追従する国会議員に託した命でもない。それは分かりきったことだが、いま冒頭の言葉が新鮮に響いてくるのはなぜだろうか。
先の沖縄戦では多くの尊い命が奪われた。歴史を振り返ると、いつも血を流させられてきたのは庶民だ。富国強兵策の明治政府から1945年8月の敗戦まで戦争を繰り返してきた日本。その時代の歌人の与謝野晶子は中国の旅順で戦っている弟に「君死にたまふこと勿れ」と呼びかけ、「おほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し 獣の道に死ねよとは、」と詠っている。理性のない弱肉強食の「なさけ知らぬけものの如き人になれ、人を殺せ、とは教えていないが、」と歎き悲しんでいる。
この詩の発表から約120年、沖縄戦から70年。またも庶民に命の犠牲を求める動きが出てきた。それを敏感に受け止めた高校生や大学生、サラリーマン、主婦、学者らが国会を包囲し、「戦争法案反対」を叫んでいる。女性週刊誌で安保法案反対の記事が載ると、その雑誌の売上げが伸びるという。若い母親たちはわが子や孫の将来を心配しているのだ。
東京では大学生たちが「SEALDs(シールズ)」を立ち上げて「安倍晋三から未来を守れ」と訴えている。沖縄でも大学生たちが「SEALDs(シールズ琉球)」を発足させ、糾弾の声をあげる。与党の公明党の支持母体である創価学会員も「平和の党に返って」と呼び掛けた。そうした動きは「生命は、誰かの持ちものでもない」ということを如実に物語っている。
この安保法案は憲法違反で、自衛隊のリスク(死)を前提にしているが、国会審議をみると、安倍首相はまともに法案の説明ができていない。とうとう参院審議では中国脅威論まで飛び出してきた。私は問いたい。
安倍首相よ、それをいう前に隣りの中国や韓国をはじめアジア諸国との外交努力で、貴殿がいう危険性をそぎ落としてきただろうか。政治家として当然やるべき仕事をせずに、国民の命で補うというのだろうか。それを世間では「無責任」と呼ぶ。
安倍首相の「戦後70年談話」が国民の心に響かないのは、その無責任さからくるものだろう。支持率挽回に腐心した、戦略的な談話であり、出す必要はなかった。「国民の命は将棋の駒ではない」のである。安保法案の撤回、もしくは廃案を強く求めたい。(宜野湾市、無職、73歳)
かりゆしクラブからお願い
この比嘉康文さんの意見に反論なさりたい方は、本名、電話、住所をぜひ書かれて下さい。比嘉さんは選挙のチラシでも自分が作ったものには氏名、電話番号、住所を明記される方です。本人が確認できない意見は幽霊のことばであり、信用できないという考えの方です。以上
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