2009年01月01日 社説 沖縄タイムス
[琉球・沖縄400年]希望のありかを探ろう
一九四五年八月に発足した沖縄諮詢会は、軍政を進めるために米軍政府が住民代表を集めて設立したものである。民間の声を代表する戦後初めての政治機構だった。
沖縄戦で肉親や親戚縁者を失い、住む家もなく、食べるものにも事欠く日々。諮詢会の志喜屋孝信委員長は、機会あるごとに「蔡温の時代を思い起こそう」と呼びかけ、敗戦ですさんだ人々の心を奮い立たせた。
琉球・沖縄の歴史には、四つの大きな「世替わり」がある。一六〇九年の薩摩侵攻、一八七九年の琉球処分(廃藩置県)、一九四五年の沖縄戦と米軍統治、一九七二年の本土復帰。
四十七都道の中で、沖縄ほど外部の力にほんろうされ、統合と分離の苦難の歴史を刻んだ地域はない。志喜屋委員長のエピソードから伝わってくるのは、自分たちの手で歴史をつくりたい、という歴史回復の願望である。
近世琉球の政治家羽地朝秀が、琉球王府最初の正史である「中山世鑑」を著したのは薩摩侵攻から四十一年後。作家の大城立裕さんは、自らの来歴を紡ぐ歴史書が書かれたことを「民族意識の発生」だと指摘している。
今年は、薩摩侵攻から四百年、琉球処分から百三十年の節目の年にあたる。佐藤・ニクソン会談で沖縄の七二年返還が決まったのは一九六九年、今から四十年前のことだ。
歴史との対話を通して沖縄の現在をより深くとらえ、未来への選択肢を多様に議論する―今年をその機会にしたい。
沖縄にはかつて「ウトゥイエー」(御取合)という言葉があったという。おつきあいという意味で、国家間の外交をさす言葉でもあった。
薩摩藩の侵攻後、琉球は江戸幕府を中心とする幕藩体制に組み込まれる一方、中国とも従来通り冊封進貢体制を維持した。歴史家が当時の琉球を「二重朝貢国」とか「二重従属国」と呼ぶのはそのためだ。
江戸幕府や薩摩藩、中国王朝(明・清)とのつきあいは、小国琉球にとって死活的に重要な国事行為であり、それを「ウトゥイエー」と呼んで重視した。隆盛を極める沖縄の現在の伝統芸能は、先人の血のにじむ「ウトゥイエー」の中から生まれたものである。
「ウトゥイエー」という言葉を手がかりに琉球・沖縄四百年の歴史をひもとけば、一国家一民族の枠組みには収まらない新たな歴史像が描けるのではないか。
沖縄では復帰後も「自立」や「自己決定権」という言葉が見果てぬ夢のように繰り返し語られてきた。
三年後に沖縄振興計画の期限が切れた時、沖縄はどのような道を自ら選択するのか。この問題は、地方分権や道州制と深くかかわっており、待ったなしの課題だ。
政治、経済が混迷し、閉そく感が社会を覆い尽くしている時代は、大きな変革が避けられない。
さまざまな困難を抱えているのは確かだが、沖縄にとって、可能性を秘めた時代の幕開けだと思いたい。
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