沖縄タイムス オピニオン 2010年1月1日 金曜日
歴史ふまえて将来像を探る 屋良朝助
昨年大好評だった本紙の「御取合(ウトゥイエー)400年 琉球・沖縄歴史再考」の連載で薩摩の琉球侵略から400年、明治政府の琉球処分から130年という節目の年を締めくくるのに沖縄戦を位置付けた意味は大きい。私なりに考えると、20万人余の犠牲者で終結した沖縄戦は「独立を失った民族の悲惨な結果」が現われたと言える。過ぎ去った歴史のやり直しはできないが、もし、「沖縄県ではなく独立した琉球国」であったら、1人の犠牲者も出なかった可能性がある。
太平洋戦争が始まり、じわりじわりと米軍が日本本土を包囲する時に、琉球国は米軍に対してどう出るか、米軍に対して勝ち目がないというのも当然の理由であるが、琉球の平和的な性格、外交政策からみて不満、不平等条約ながらも日本本土攻撃のための基地建設と使用を認め、結果的に米軍から攻撃を受けることもなく犠牲者が出なかったということになる。
沖縄戦が終結し沖縄が日本から切り離され、米軍は琉球政府という体制を敷いた。終戦直後は沖縄の独立も大きな選択肢の一つだった。しかし、人々は皇民化教育の影響で日本人意識のままであり、まもなく日本復帰運動が起きた。多くの政治家、団体は平和憲法の下に復帰すれば「沖縄の基地の核抜き本土並みが実現する」と日本復帰運動を主導した。人々もそれを信じて熱心に運動を行った。しかし最近明らかになった日米政府の密約が示す通り沖縄の民意は無視された。100万人の利益より1億人の利益を優先することになった。
日本復帰すれは沖縄の社会矛盾がすべて解決するかのような世論が支配していた。公認会計士の野底武彦氏は琉球独立党を結成し、警鐘を鳴らし、初の主席選挙にも出馬したが、大衆の理解は得られなかった。その後も元大衆金融公庫総裁・崎間敏勝氏も参議院特別選挙に出馬した。最近、日本復帰を推進した政治家や文化人が、「日米政府に復帰運動を逆に利用された」「復帰運動は失敗だった」という反省から、特別道州制、一国二制度、特別自治州や独立論を唱えるものが増えている。
こうした歴史をふまえて、「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」は4回目のシンポジウム・大激論会を名護市の大西公民館で9日に開き、経済自立と基地について専門家の話を聞き、住民が議論を展開するという。節目の年に続き、沖縄の将来像をみんなで考える機会として注目している。(那覇市、会社代表、57歳)